新日本プロレス50周年 昭和のブーム期支えた古舘アナの実況
原点となった舟橋慶一アナの実況
舟橋さんの実況は古舘さんと比べ落ち着いた印象があったので、大げさな形容詞、修飾語句、修辞語句が途切れなく飛び出し続ける古舘さんとは対照的なイメージがあった。しかし古舘さんによると「舟橋さんの実況のベースが8割あって、僕は2割遊べただけ。舟橋さんは『古代ローマ、パンクラチオンの時代から強い者は人々の憧憬を集めました。いま、蔵前国技館。赤の花道からゆっくりと、燃える闘魂、アーントニオ猪木入場であります』と落ち着いてしゃべった。これ、源泉は七五調の韻の踏み方なんです」とのことだった。ルーツが舟橋さんと聞いたとき最初は意外な気がしたが、その説明を聞いて腑に落ちた。 「多彩なキャッチフレーズを繰り出す古舘さんが、自分の実況のルーツは舟橋さんと言うのはわかる気がします。舟橋さんは新日本プロレス以前、日本プロレス時代からプロレス実況をしていましたが、新日本プロレスが始まってからはとくに新しいプロレスの夜明けとして新日本プロレスを位置づけ、選手たちの魅力や特徴をわかりやすく伝えるためレスラーのキャッチフレーズにもかなりこだわった実況をしていましたから。『燃える闘魂』という猪木さんのキャッチフレーズも、もともと舟橋さんによるものです」(元プロレス雑誌60代男性編集者)
選手招聘に苦戦した黎明期を実況が支える
なぜそこまでフレーズへのこだわりがあったのか。 「ジャイアント馬場さんも1972年には日本プロレスを退団し全日本プロレスを創立しましたが、馬場さんはもともとアメリカに顔がきいたし早い段階から日本テレビのバックアップでアメリカをサーキットしつつ各地の有力プロモーターたちと強いパイプを築くことができました。そのため初期から誰もが知る有名選手を招聘できたのですが、猪木さんの場合は73年4月になってテレ朝で新日本の中継が始まってからも、しばらくはこれといった太いパイプがなかったんですよ。それだけに実況があまり有名ではない選手の魅力や特徴をわかりやすく伝えるフレーズにこだわったというのは、必要不可欠なことでもあったのかなと思いますね」(前出・プロレス雑誌編集者) その後新日本プロレスはタイガー・ジェット・シンはじめ海外では評価を得られていなかった選手を発掘してキャラクターを立てて育てたり、国際プロレスの主力選手だったストロング小林をはじめ大物日本人対決を実現したり、ウィリエム・ルスカ戦に始まる格闘技路線をスタートすることなどで注目を集めることに成功していった。また、外国人選手招聘という面ではニューヨークのWWWF(現WWE)と提携したことも大きい。そうやって着々と礎を築いていった間も一貫してリングと実況の二人三脚が新日本プロレスを育てていった。