タケオキクチ、メンズビギ、日本のメンズファッションを牽引してきた菊池武夫の5の逸話
菊池武夫の逸話②「DCブームの火付け役となった伝説的ブランド『メンズビギ』の生みの親」
デザイナーとしてデビュー後、約10年はクチュリエや自身のアトリエで主に注文服を手掛けていた菊池氏だが、ずっと心の内に抱えていた「自分と同じ世代の多くの人たちに向けて、自由な発想でデザインする欲求」が育ち、リアルクローズを作りたいという思いから既製服事業へと転換することになる。そして1970年、級友であり当時の妻であった稲葉賀恵氏や、同じく級友であった大楠裕二氏とともに、レディースウェアを手掛ける(株)ビギを設立。菊池氏はデザインと制作を担当し、劇団四季の舞台衣装などを手掛けていた。菊池氏にとってビギの設立は今でも鮮明に思い出せる強烈な体験だったようで、「その後の人生を変える最大級の出来事だった」と語っている。後にメンズラインも発足し、そちらでは萩原健一主演の伝説的ドラマ『傷だらけの天使』の衣装を担当したことで、メンズファッションの分野で爆発的なブームを巻き起こす。また、かのブルース・リーも1973年に『燃えよドラゴン』でビギのスーツを着用している。その後、メンズラインは1975年に菊池氏が独立させており、これが伝説のブランド「メンズビギ」の始まりとなった。 コム デ ギャルソン、ヨウジ ヤマモト、イッセイ ミヤケなど1980年代の日本で社会的ブームとなったDCブランドだが、その先駆けであり火付け役となったのが他でもないメンビギである。ビギ時代から衣装提供をしていた『傷だらけの天使(1974~75)』の大ヒットを追い風に、「菊池武夫」の名前は世に知れ渡り、ブランドは熱を帯びて成長し続けた。
菊池武夫の逸話③「日本人が手掛けるメンズブランドとして初のパリ進出」
メンズビギが日本で順調に売り上げを伸ばしていたことから、菊池氏は海外への進出を思い立ち、ブランド立ち上げからわずか2年でパリに拠点を移す。パリでコレクションを発表し、日本人として初めてメンズのショップをパリにオープンする偉業を成し遂げた。本来、メンズファッションの中心となるのはミラノであり、当時も参考になるのはジョルジオ・アルマーニぐらいだったと語る菊池氏。その中であえてパリを選んだ理由は二つ。一つはフランスが異文化を上手に取り入れ、それをいつの間にかフランス的に染めてしまう独自の感性に面白さを感じたこと。もう一つは、世界中から集まったデザイナーたちが作り出す“モード”の感覚がパリでしか見られなかったこと。当時からレディースファッションにおいてトップであったパリに、最先端のモードファッションが集結していることに魅力を感じ、パリにメンズビギヨーロップを設立した。ちなみに、パリで2回目となるショーを開催した際の相棒はルシアン・ペラフィネだったそうだ。 何もかもが順調かに思われたが、菊池氏が離れたことで日本サイドの経営が悪化。どちらかを捨てる決断を迫られ、菊池氏は1979年にパリから撤退し日本へ帰国することを選んだ。負債は1億円ほどあったそうだが、菊池氏が東京へ戻るとすぐにショーが反響を呼び、立て直しに成功。この時、一人で経営とデザインを両立することの難しさを痛感したことで、経営面は古巣のビギに託し自身はデザインに専念することを決めた。