「板倉」が飢餓を、「石棒」が世界を救う!? 岐阜・飛騨市で見た先人の知恵【第4回】
実は、種蔵はもともと「棚倉」という地名だったという。陸奥国白川郡(福島県)の棚倉から移り住んだ人たちが、出身地の名前をこの地区にもつけたからだ(諸説あり)。それがどうして種蔵に変わったのだろう? それは周辺の集落が飢饉のとき、この地の人びとが周辺住民に種を分け与えたから。救われた他の集落の人たちが尊敬と感謝の念を込めて、種を貯蔵している村=種蔵と呼ぶようになったのだという。こうして多くの人の命を守ってきた板倉自体も「田の神」とされ、大晦日には各板倉に鏡餅と松が飾られたそうだ。 「困っている他の集落を助けた。それが種蔵の誇りなのです」と土田さん。飛騨には、こうした助け合いの文化が残っている。そして、それを受け継ぐ志ある人たちが種蔵を守っているのだ。
「石棒」が躍動する「飛騨みやがわ考古民俗館」
関東で暮らしている私は、川は南に向かって流れるものだと思い込んでいるが、飛騨市の川は北の日本海側に流れる。種蔵から宮川沿いの街道に出て、さらにゆるやかに下って車で30分ほど走ったところ、うっそうとした森の中にずいぶんと立派な博物館が現れた。飛騨の山あいの暮らしを伝える「飛騨みやがわ考古民俗館」(以下、考古民俗館)だ。
到着すると、今日が解説デビューという若い学芸員の2人が待っていてくれた(上写真)。木下孔暉さんと保谷里歩さんだ。手にはしっかり予習プリントを持っている。こちらの博物館は主に雪国の暮らしを伝える民俗資料と旧石器時代から縄文時代の考古資料を展示するふたつの館と、外にある古民家「旧中村家」から成り立っている。 スリッパに履き替え館内に入ると、先ほど訪れた種蔵のかつての暮らしを彷彿とさせる蓑や雪靴、農作業用のクワや漁業でつかう大きな籠など、さまざまな道具が展示されていて壮観である。それにしてもすごい点数だ。聞けば収蔵資料を含め、民俗資料だけで1万6000点になるという。
一方で約1万4000年前~約2300年前、旧石器時代から縄文時代の考古資料は、さらに多い4万点を収蔵しているのだとか。「山も川もあって、食糧となる獣、魚、キノコや木の実が手に入る飛騨の山は、縄文時代は暮らしやすく豊かだったのでしょう」と保谷さん。なるほど、縄文人にとっては飛騨の山があこがれの一等地だったのかもしれない。 さて、その縄文ゾーンに入ったとたん、ふたりが急に喜々として「石棒」について猛烈に語りだした。