「板倉」が飢餓を、「石棒」が世界を救う!? 岐阜・飛騨市で見た先人の知恵【第4回】
板倉全盛期のようすがわかる飛騨市管理の板倉を、土田さんが開けてくれた。内部は2階建てになっており、入り口付近には蓑(みの)や草鞋、クワやスキなど農具がかけられている。その奥に種の貯蔵スペース。2階には、正月などの宴席でつかう道具などがあった。 土田さんの案内で、10以上の板倉を一気に見渡せる高台に移動した。いまも交通の便の悪い種蔵に暮らしているのは、他町からこの地の田んぼに通っている人たちを含めても、8世帯15人だけだ。しかし、この風景をいつまでも残したいと願う人々はたくさんいて、ここで暮らさずともインターネットを通じた「バーチャル村民」となって応援できる「飛騨市ふるさと種蔵村」を結成している。同会は1年を通じ、さまざまなリアルイベントを開催しているという。
そこから少し歩くと、目の前に軽トラックが停まり、運転席から「どっこらしょ」と人が降りてきた。種蔵地区の“村長”荒谷勇さんだという。これから田んぼの作業のようだ。声をかけると、「もう年をとって景観を維持するのが大変だけど、外からの人も手伝ってもらってなんとか景観を残せています。この後もできる限り守っていきたいですね」と語ってくれた。
石積みが美しい古い棚田は、まだまだ健在
集落をひと回りすると、「さらに上の方に、古い棚田があるんです。景色もいいので見に行きましょう」と土田さんが車に乗り込んだ。 古い棚田への道は細くガードレールは切れている。土田さんの車を必死に追う石原さんは、「大丈夫です。Uターンはきっと甲斐性のある土田さんがやってくれるでしょう」とほほ笑みつつも顔がこわばっている。標高450mの集落から、さらに150mほど上がっただろうか、美しい石積みの棚田が現れた。すでに田んぼとしてはつかわれていないが、いまも崩れずに残っている。 昭和に入り人口が増えた種蔵地区では、さらなる棚田が必要になった。だがすべて手作業の当時、それは大変な工事だった。地面の石を掘り起こしては手積みしていく。石が足りなければ、山の上から運んでくるしかない。同時に田んぼやカイコの世話、森林の伐採とやることは毎日、山積みだ。さらに太平洋戦争が起きて、男たちが戦争にとられたり戦死したり、結局、この高台の棚田が完成したのは昭和27年ごろ。実に12年がかりの難工事であった。そんな先人たちの苦労をしのびつつ、石積みの田んぼから少し下ると木々の間から美しい集落全体を見渡せた。