【山手線駅名ストーリー】高輪GW開業までは乗降者数断トツ最下位 の鶯谷。都育ちの親王が関東の鶯のヤボったい鳴き声に耐えかねた?
小林 明
1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第16回は「鶯谷駅」。この駅名の由来には山手線屈指の面白い話がある。タイトルの(JY06)はJR東日本の駅ナンバー。
駅の西側に人はほとんど住んでいない
鶯谷(うぐいすだに)駅の開業は1912(明治45)年7月11日。 1番目の写真は建設中の様子を撮影したもので、右奥のプラットホームから陸橋を渡った先の駅舎に通じている。この駅舎が、現在の南口に相当する。
駅の西側に当たる左の斜面の上には天台宗の関東総本山・寛永寺があり、さらにその西には、東京国立博物館と上野公園(現在の上野恩賜公園)が広がっていたため、人がほとんど住んでいなかった。それは現在も変わらず、市街地が広がっているのは東側である。
東側にしか住宅がない立地が影響しているのか、1日の平均乗車人員は山手線の駅ではずっと最下位だった。2020年に高輪ゲートウェイ駅が暫定開業(本開業は25年3月予定)したことで最下位を脱したものの、2万1112人(22年、JR東日本調べ)と、順位がひとつ上の目白駅3万840人(同)より1万人近く少ない。
鶯を見たことがなくても、「ホーホケキョ」というさえずりを知らぬ人はいないだろう。鶯谷の駅名は、文字通り、日本人になじみ深いウグイスがこのあたりに多くいたことに由来する。
現在、行政地名として鶯谷は存在しないが、1820(文政3)年の『根岸略図』に「ウグヒスダニ」の文字が確認できる。「上野」の左下にあり、現在の鶯谷駅とほぼ一致する。 ただ、周辺の別の場所を「鶯谷」と記述している文献もあり、正確にどこが鶯谷だったのかは分かっていない。
鶯には複数パターンの鳴き声
1732(享保17)年刊の地誌『江戸砂子』の「根岸ノ里」の章には以下の記述がある。 「根岸ノ里は、鶯の名所なり。元禄(1688~1704)の頃、御門主様より上方の鶯を多く放させたまう。関東の鶯は訛(なまり)ありて、此所(ここ)はその卵なるゆえ、訛なしといえり」 「根岸ノ里」は、現在の鶯谷駅東側の町名「根岸」のこと。『新編武蔵風土記稿』は「東叡山(寛永寺)の根きしなるをもって名付けし」とある。寛永寺が建つ高台の崖の際(きわ=岸)の下にある、根っこような場所という意味だろう。 御門主様とは後西天皇の第6皇子・公弁法親王(こうべんほっしんのう)だ。出家したのち、1690(元禄3)年に日光輪王寺の師の座を継承するため京都から関東に下向し、寛永寺も管理する立場にあった。都で生まれ育った親王には、東国の鶯の鳴き声が田舎くさくて耐え難かったのだろうか。京の鶯を取り寄せて根岸の里に放ったという。それらが繁殖すると、訛のない鳴き声を聞かせるようになり、鶯の名所として知られるようになったというのである。 『東京下谷 根岸及近傍図』(根岸倶楽部/1901[明治34]年)にも、「文政図では徳川家霊屋下の地をウグヒスダニと記している」とある。「徳川家霊屋」とは寛永寺のことで、その下に「ウグヒスダニ」があった──と。寛永寺の下は現在の根岸1~2丁目だ。根岸ノ里が鶯谷の地名に関係していたのは間違いないと見ていい。 ただし、親王が鶯を連れてきたという逸話は、出典が明らかでない故事を『江戸砂子』が収めたに過ぎない可能性もある。 国立科学博物館の「鳥類音声データベース」で鶯の鳴き声について調べたところ、鶯の鳴き声には「ホーホケキョ」などと聞こえるH型と、「ホーホホホケキョ」などと聞こえる L型がある。オスは成長の過程で美しく鳴くことを学び、H型、L型のさえずりを少なくとも1つずつ含む 2~5程度のパターンを持っているそうだ。 幼鳥が上手に鳴けないことを「ぐぜり鳴き」という。成長の過程で周囲の親世代の鳥の鳴き方を学習して自然に美しくさえずるようになる。 ところが京育ちの親王が鶯を放って訛を矯正したという真相不明の「噂話」が庶民の耳に入り、「さすが親王様が連れてきた鶯は違う」という、今でいうバイアスが掛かったのが真相かもしれない。