【山手線駅名ストーリー】高輪GW開業までは乗降者数断トツ最下位 の鶯谷。都育ちの親王が関東の鶯のヤボったい鳴き声に耐えかねた?
日暮里駅に近くにも「鶯谷」
一方、1826~29(文政9~12)年に編纂された『御府内備考 谷中之一』にも「鶯谷」への言及がある。 「鶯谷 七面坂より南の方、御切手同心組屋敷の谷なり。此の坂へ下る所を中坂といふ」 中坂は現在は台東区谷中5丁目にある「蛍坂」と呼ばれる路地で、近くには江戸城大奥の裏門である「七つ口」を監督する役人・御切手同心の組屋敷があった。前掲の『根岸略図』の「ウグヒスダニ」から西に約1.5キロメートル離れており、日暮里駅や東京メトロ千駄木駅に近い。 整理すると、『根岸略図』では「ウグヒスダニ」は現在の鶯谷駅近辺にあり、『江戸砂子』では鶯谷駅の東側の根岸ノ里が鶯の名所だったといい、『御府内備考』では日暮里駅に近い中坂(現・蛍坂)が鶯谷と呼ばれていた。 これらを総合すると3つの場所がそれぞれに鶯谷と呼ばれていたのではなく、3つをつないだ比較的広いエリアが鶯がさえずる谷の通称として、江戸時代から親しまれていたのではないだろうか。
寛永寺には歴代将軍や篤姫の霊廟
鶯谷駅近隣の名所といえば、寛永寺は外せない。徳川将軍家の菩提寺として1625(寛永2)年、3代・家光によって創建され、初代住職は家康のブレーン天海大僧正だった。 寛永寺には、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人の将軍と、家定の正室・天璋院篤姫の霊廟がある。以前は、事前申し込みにより、綱吉・吉宗・家定と篤姫の墓所を特別参拝することができたが、コロナ禍で休止して以来、再開していない。 それでも墓所の入り口にあたる勅額門(ちょくがくもん)に、篤姫の霊廟を解説した写真付き案内板があり、将軍と同様に宝塔が建っていると分かる。参拝の再開が待たれるところだ。 寛永寺は根本中堂も見どころだ。江戸時代は現在の上野公園噴水広場の辺りに建っていたが、1868(慶応4)の彰義隊の戦いで焼失したため、幕府が庇護していた喜多院(埼玉県川越市)の本地堂を移築して再興した。 こちらも現在、耐震工事のため非公開だが、社務所によると創建400周年にあたる2025年10月に特別法要が行われる予定であり、その際に新たに奉納される龍の天井絵とともに拝観があるかもしれないという。 寛永寺にまつわる名所をもう1つ。鶯谷界隈を歩くと、いくつもの石燈籠に出会える。例えば駅南口を出て上野公園方面に歩いて徒歩2~3分、林光院というお寺の山門前の路傍脇にある。 将軍が死去すると、大名には燈籠の奉納が義務付けられていた。寛永寺に眠る将軍1人につき200基以上が納められたというから、かなりの数にのぼった。だが戊辰戦争の戦禍や、寛永寺敷地の縮小の過程で散逸してしまい、その一部が駅周辺に残っているのである。 上野公園の清水観音堂の石段脇、上野東照宮の鳥居脇・参道にも並んでいる。根本中堂前に置かれた銅製の燈籠は10万石以上の大名が奉納したものだという。