【福島原発事故11年】「善玉」対「悪玉」の構図で描かない 民間事故調の検証「当事者はまだ伝えたいことがある」 船橋洋一API理事長に聞く #知り続ける
仮説の「ステレオタイプ」が壊れた時がニュースの発見
――初めから結論ありきで行わないことが、よい検証を行う上では必要ということですね。 取材でも、ある程度仮説をつくってみて、質問することはよくあります。目星をつけて、あちこち掘ってみて「やっぱり水が出てきたな、うん、この仮説でいいんだ」と納得する。そこで記事にしようとすれば記事になる。しかし、それだけだと正直、「驚き」はあまり感じないですよね。 仮説を持って取材を進めてきたが、「実は掘る場所が違っているのでは」と思い直して別の所を掘る。すると、まったく思いもよらなかった群青の湧き水が噴き出す。それが、本当のニュースだと思います。ステレオタイプが壊れた時がニュースの発見です。検証も似たところがあって、ヒアリング相手から話を聞いていく中で、「ちょっと待てよ、仮説とは違うのでは?」と迷いが出てくる時がある。その時がたぶん、検証冥利の瞬間なのでしょうね。 ――既存のメディアは、最初の仮説に縛られすぎるところがあるのかもしれません。 仮説というか、信念というか、見出しを見れば、記事を読まなくても分かるとか、社説にそんなの多いですよね。同じテーマに関するそれまでの社説をネットで引いて見ると、言葉も論理も紋切りで、構成も運びも定型で、完結し、閉じてしまっている、それまでの社説レガシー(遺制)にとって「不都合な真実」が出てきたとき、それに正面から向かい合って格闘していない、と思うことがあります。時代は絶えずどんどん進んでいて、新しい課題も生まれているにもかかわらず、同じ発想と同じ論理で裁断するものだから、結局、現実に取り残されていく。そんな状況が今、メディアにはあるのではないかと思います。
国民の政府への「信頼」がないからパートナーシップが生まれない
――複雑になっていく世界に対応し切れていない部分が出てきているのかもしれません。ところで、福島はいまだ厳しい状況に置かれているところが少なくありません。11年目の福島を見てどんなことを考えますか。 日本の社会は、新しいことにチャレンジする、果敢にリスクを取っていくことに対してますます忌避感が強くなっているのではないかと思います。最近の世論調査で、「原発はやはり動かさざるを得ない」と考える人が少し増え始めているという結果が出ていました。事故から10年以上が経過して、初めてのことです。これは実は大きな変化だと思っているのですが、ただ、今のこの古い原発を今後も使い続けるだけでいいのか、40年の耐用年数をあと10年延長するとか、そんなことでいいのでしょうか。例えばSMR(小型モジュール炉)のような次世代技術を導入することの是非をなぜ、もっと正面から議論しないのか、とか。 それから、国民の生命や健康や安全を守るための技術革新とイノベーションを社会に実装して危機により良く備える、より良く対応することを、もっと考えなければいけない。しかし、こういう国民安全保障についての科学技術の研究開発が遅れているし、学界からは安全保障ということで敬遠される。こうした反イノベーション・バイアスはあの事故から10年以上が経ち、また、新型コロナウイルス危機を経験する中で、いまも基本的には変わっていない、と感じます。 ――そのような姿勢というのは、しっかりとした検証ができないということともつながっている気がします。 官僚機構には一種の無謬(むびゅう)性の神話みたいなものがあるし、自分たちの解だけを正解であるとし、しかも、データを国民に十分に示さない。そして一旦、決めると組織決定だとしてもう動かさない。アイデアや政策に関して競争状態(contestable)に置かれたくないという日本の官僚制の唯我独尊的排他性がある。国民を、子ども扱いというと言い過ぎだけれども、そういう扱いをするところがある。国民のほうも、ただ政府に対して要求するばかり、という部分があると思います。危機の時に、国民が当事者意識を持って、政府とも協力して乗り切っていくという精神や気概が必要だと思います。「誰かがやってくれる」「やってくれない政府はけしからん」というだけでは、危機を乗り越えられない。 政府と国民のパートナーシップをどのようにつくるか、それが危機に必要なガバナンスです。しかし、国民の政府に対する「信頼」がないからパートナーシップが生まれない。政府は国民を「安心」させたい、しかし、危機に直面した時、政府がやらなければならいことは国民に「安心」を売ることえではなく国民の「信頼」を勝ち得ることなのです。