「AI彼女」「ヌード化」アプリをハック! フェミニズムアートが切り込むAI時代の「ジェンダー規範」
ヌード化アプリを逆手に取った家父長的視線への抵抗
スウェーデンのアーティスト、アルヴィダ・バイストロムの新作は、AIとポルノによって生じ、その2つが掛け合わされたときにさらに悪化する「カジュアルな非人間化」をテーマにしている。2023年の終わり頃、彼女はundress.appに自分の写真をアップロードした。これは、ユーザーが送った画像をもとにAIがヌード画像を生成する、数あるヌード化アプリの1つだ。この手のアプリに人気があるのは、1カ月で2400万以上ものビジターを記録したことが証明している。その多くは女性の写真のみを対象とし、画像に写っている人物の同意なしに使用することができる。 バイストロムは、アプリでヌード化した自身の画像を『In the Clouds(クラウドの中)』(2024)という本にまとめている。最初の数ページに掲載されているのはごく普通のポルノ風の写真で、AIによる加工は、単に彼女の乳房を大きくするという月並みで独創性に欠けるものだ。 しかし、ページをめくっていくと、バイストロムがAIによる生成にどう介入していったかが見えてくる。生成された画像が示しているのは「AIが写真をどう見ているのか」を探る過程で、彼女がだんだんとAIを操る方法を発見していくのが分かる。たとえば、何枚かの画像では、彼女が薄いピンクなど自分の肌と同じトーンの服を着ているため、AIはどこまでが彼女の肌で、どこからが服なのかを見分けるのに苦労している。混乱したAIは、派手なピンク色の全身タイツと一体化した陰部が全身に広がっている画像や、3つの手と3つの乳首、そして切断された脚のような突起がある身体の画像を作り出している。 こうしてバイストロムがAIに課すハードルは、ページを繰るごとにますます上がっていく。たとえば丸く赤いピエロの鼻をつけた写真を与えると、AIは赤い丸とペアになるもう1つの乳首を描き、首をひねってカメラに顔と背中の両方を見せた写真では、肛門があるべきところにクリトリスを描くという具合だ。 中には、人体の構造がまったく無視され、非人間的と言っても過言ではない画像すらある。私のお気に入りの画像は、ベージュ、ラベンダー、ピンク色のサテンの下着の下に、ヘソと脚のようなものがごちゃ混ぜになった塊を描いたものだ。この肉塊は、開口部といえばヘソしかなく、腕や脚の代わりに膝のような突起しかないにもかかわらず、どこか誘惑的だ。現代思想の奇才と呼ばれる哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、この本に寄せたエッセイの中で「誘惑するために身体が実在する必要はない」と書き、テイラー・スウィフトの性的なフェイク動画を、本人でないことは百も承知で何千万人もの人々が視聴したことに触れている。 ほとんどの画像生成AIアプリで性的な写真が禁止されているのは、どう悪用されるかが想像に難くないからだ。undress.appでさえ、バイストロムがそれを使ったプロジェクトを始めてから規約を変更している。とはいえ、ポルノコンテンツが溢れ、男性の眼差しと家父長制的なファンタジーに大きく偏向したインターネットのデータで訓練された集合知が存在することに変わりはない。バイストロムは、AIが知っていることと、それを作った人々が隠したいことを私たちに開示するよう、AIを誘導する方法を見つけたのだ。つまり、私たちがAIに見せたものを、AIがどう見ているのかを。 バイストロムは子どもの頃にモデルとして働いていたが、思春期を迎えた13歳の時にヒップが大きすぎると言われたという。 「すごくショックでした。でもその後、フェミニズムに傾倒し、モデルを辞め、自分の体を素晴らしいと思えるようになりました」 2010年代のポスト・インターネット・ムーブメントの中で自撮り作品が注目されて以来、彼女はモデル業界から自分自身のイメージを取り戻す方法として、また他人をモノとして扱うのを回避するために、自分自身を素材にした画像を制作している。 自分自身のイメージを取り戻すというバイストロムの意図は確かに重要だ。しかし、彼女が全ての女性の代弁者であるかのように、その作品を「フェミニスト」的だと語るときには、ある問題が生じる。アーティストであり、評論家でもあるアリア・ディーンは、2016年のエッセイの中で「自撮りフェミニズム」の制作者が白人に偏っていることを指摘。男性の眼差しの要求がいかに不均等であるかについて、黒人女性は「監視されると同時に陰に追いやられ、無遠慮に見つめられながら不可視な存在だ」と例を挙げ、バイストロムなどのフェミニズムプロジェクトが抱えるリスクについてこう論じている。 「最も牽引力のあるフェミニズム的表現が、可視性との関係において複雑さを免れている限り、それは美学化と脱政治化の中にさらに沈んでいくだけだろう」 言い換えれば、家父長制的な現状を打破するには、女性が自分の姿を自分の流儀で画像化するだけでは不十分なのだ。実際のところ、現代の美しさの基準を設定しているのは、雑誌ではなくインフルエンサーと呼ばれる人々だ。いわゆる「普通の」女性たちが自分自身をイメージ化して世に送り出しているわけだが、それでも私たちは罠から解放されたわけではない。少数の女性たちが、罠から利益を得られるようになっただけだ。 確かにアリア・ディーンの批判は正しい。だが、バイストロムがAIとのコラボレーションで生み出した最近のシリーズは、彼女が以前取り組んでいた自撮りフェミニズムの作品より直接的に、見る者と、ひいては私たちの文化と向き合い、そこに介入していると私は思う。ウッデンベルグの彫刻やパイパーのパフォーマンスと同様、バイストロムは他者の視線を呼び起こす。ただ「失せろ」と拒否するためだけに。 ただ、それが可能なのは、バイストロムがAIの訓練に使われている白人のやせ型の身体を持っているからにほかならない。彼女は、AIに退屈でありきたりの最小公倍数的ファンタジーを再生産するよう仕向けるが、それこそが肝心なところなのだ。バイストロムが言うように、「私たちは規範的な美しさに晒されすぎて、もはや興味を失っているのだろう」(翻訳:野澤朋代)
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