終わらない戦争に私たちはどう対峙する?歴史からパレスチナとウクライナを考える――小山哲さんに聞く
侵略者になりうる危険性を知っておくこと
―これまで小山さんに、俯瞰でみる視点だけではなく、例えば隣人のように地べたから見る視点の大事さ、そして単純な二項対立で考えることの危険性についてお話しいただきました。それを重視する理由は、分解するとどういうところにありますか。 小山:そういう状況になったときに、ひょっとすると自分も殺す側に立つ可能性がある、と考えることが私は大事だと思うんです。 私たちはどうしても、被害を受ける側に感情移入をするのだけれど――もちろん、それも大事です。それがないと自分ごとにならないから――でも、自分ごとにすることのさらに大事な意味は、つねに自分が侵略する側になる可能性があるのだと考えることだと思います。それをわかっているかどうかというのは、大きなことじゃないかなと思う。 ―例えばロシアがそうであるように、大国で暮らす人のなかにも侵略に反対する人はいて、しかし大きなムーブメントや抑圧から加担せざるを得ない状況にある。それは私たちが暮らす日本もその枠の外にはいないという意味でしょうか? 小山:さらにもっといろいろな考え方ができます。例えば、いまのロシアで、ウクライナ戦争に批判的な人もいると思うんです。この戦争はやっぱりおかしいと感じている人もロシアの社会のなかにはいるはずで、でも声を出せないわけですよね。弾圧されてしまうから。 ただ、ロシアのいまの体制だって、いろいろ圧力のかかったかたちではあれど、選挙をやって、一応民主主義的な手順を踏んでから成り立っています。 そういう体制が日本ではあり得ないのかというと、そんなことはないわけです。イスラエルも、ちゃんと議会があって、選挙もやっていまの体制になっている。遡れば、ナチスドイツもワイマール憲法という民主主義的な憲法のもとで成り立ち、その後のやり方が強権的だったということですよね。 だから民主主義的な――あるいは議会制民主主義のもとでも――一歩間違えば、強権的な体制はできる。つい先日、韓国でもそうなりかけた場面を私たちは見ましたよね。 だから、私達はとても危うい世界に生きている。そういう感覚で、いま起こってる戦争を見てみれば、それはやっぱり他人事ではないと感じると思います。