「スポーツ欄になかなか載らない時期も」車いすテニス・国枝さん会見2月7日(全文3完)
競技生活を続ける中で一番の苦労は
記者:毎日新聞の岩壁と申します。国枝選手、お疲れさまでした。ありがとうございます。先ほどの質問の中で、車いすテニスを社会的に認めさせたいというお話をされていましたが、国枝選手が競技生活を続ける中で、そこで一番苦労をされたこと、そこでまたどう克服したのかということと、すみません、最後ちょっと、ありがちな質問で恐縮なんですけれども、今の自分をふかんしてというのはあれですけれども、車いすテニスを始めた11歳の自分にどういうふうな声を掛けてあげたいのかっていうこと、そこも併せてお伺いできればと思います。よろしくお願いします。 国枝:アテネのパラリンピックのときっていうのはまだまだ、僕が金メダルを取っても、やっぱりスポーツ欄になかなか載らない時期っていうのはありましたよね。それで、やっぱりそれをどうにかスポーツとして扱ってもらいたい、これは、この車いすテニスをやってると、よく、あ、車いすでテニスやって偉いねっていうふうに言われたこともあったんですけど、別に車いすでテニスやってることが偉いことじゃなくて、目が悪けりゃ眼鏡を掛ける、僕は足が悪いから車いすで、それでスポーツするしかない。スポーツがしたいっていうのも皆さん思うわけじゃないですか。結局そこはそんなに、なんて言うんですか、特別なことではないというのはずっと思ってて。
東京パラ大会後の反響に手応え
で、やっぱりアテネのころは、まだまだスポーツとして扱われないな、本当に福祉として、何か社会的な意義があるものとしてっていうところがすごく強くメディアを通して伝わっていたのかなっていうふうには思ってて、これをやっぱり変えないと、なんか自分がやっていることが、この車いすテニスを通して、あ、車いすテニスってこんな面白いんだ、本当に予想以上にエキサイトするスポーツだねとか、そういった舞台に持っていかないと、結局、なんて言うんですかね、パラリンピックも、よく共生社会だとか、つながって、共生社会の実現のためにみたいなことをいわれますけど、結局、スポーツとして感動を与えられたりとか興奮させるものではないと、やっぱりそこにも結局はつながっていかないんじゃないかなっていうふうには思っていたので、まずはやっぱりスポーツとしてっていうところのこだわりっていうものは、僕自身、相当強く持ちながらプレーはしてましたね。 そういう意味では、先ほども言ったかもしれませんが、相手との戦いと自分との闘い、そしてやっぱりスポーツとして見られたいという闘い、この3つがずっと現役中は肩にのし掛かってやっていたかなっていうふうに思ってて。東京パラリンピックでようやく、なんかそれまでも、国枝、車いすテニス世界1位だとかは知られていたと思うんですけど、どういうプレーをするかだとかっていうことは実際に皆さんご存じなかったんじゃないかなっていうふうには思ってて。やっぱり東京が終わったあとのあの反響っていうのは、ものすごく僕の中では、スポーツとしてってところの手応えがあったっていう出来事だったかなというふうに思っています。