津波で家族4人を失った父 新たに授かった娘に「おばあちゃんになるまで生きて欲しい」#あれから私は
原発30キロ圏内では放射能のリスクから、自衛隊もなかなか捜索には入らなかった。発災から40日後の4月20日、ようやく自衛隊が入った。しかし萱浜での捜索は2週間で終了。それっきり、二度と来なかったという。 自力での捜索には限界があった。仲間10人ほどしかいない状況で、泥の中にもぐった遺体を手探りで見つけるのは至難の業だった。腰まで浸かる深さの泥水が、池のように溜まった場所もあった。水を抜こうにも満足な重機さえない。それでも、来る日も来る日も捜し続けた。「倖太郎を見つけたら、その場で自分の命を絶とう」。当時の上野は、そこまで思いつめていた。 しかし、どれだけ捜しても見つからない。すると、ふとこんな考えが頭をよぎった。 「倖太郎は、俺を生かすために出てこないのかなって思ったの。倖太郎はわざと見つかんないようにしてるのかなぁって。だから俺、倖太郎に助けられたんだなって」
行方不明者の全員を捜したい
翌2012年の3月10日。上野家では4人の葬儀を行った。本当は倖太郎と喜久蔵が見つかってから葬式をしたかったが、「きちんと供養してあげたい」と妻・貴保が望んだことだった。震災当時、妊娠中だった貴保は、放射能を避けるため一時的に茨城県に避難した。その結果、亡くなった永吏可の火葬に立ち会うことができなかった。
葬儀後も上野はずっと仲間と共に捜し続けてきた。上野にとって捜すことは、守れなかった倖太郎のためにしてやれる数少ないことの一つだった。震災以降、週末はすべて捜索に費やした。震災から半年後の9月に生まれた次女・倖吏生(さりい)と過ごす時間より、捜索活動を優先していた。 2011年4月以降、立ち入りが禁止されていた原発20キロ圏内で徐々に「警戒区域」が解除され、人が入れるようになった。上野たちは、第一原発に近い双葉郡の町へも捜索範囲を広げた。原発事故のために、捜索が十分には行われていないエリアだ。海岸線を繰り返し歩き、消波ブロックの隙間に目を凝らした。