津波で家族4人を失った父 新たに授かった娘に「おばあちゃんになるまで生きて欲しい」#あれから私は
津波に襲われた萱浜地区
2011年3月11日。上野は職場の農協にいた。激しい揺れがおさまると、すぐさま自宅に車を走らせた。20分後の午後3時過ぎには到着し、両親と、怖がって震える幼い倖太郎の無事を確認した。 「避難所の小学校に行く」 両親の言葉を聞いた。小学校には2年生の永吏可がいた。上野は安心し、一旦職場に戻った。当時、津波の第一報は「3メートル」だった。自宅のある萱浜地区は海抜10メートル。誰も警戒感を持っていなかったという。 それから30分後の午後3時40分、萱浜地区は津波にのまれた。再び車で自宅に向かっていた上野は、間一髪で引き返し、難を逃れた。津波が引いて自宅にたどり着くと、周囲は泥と瓦礫に覆い尽くされ、見る影もなかった。
地元の消防団員だった上野は、集落で流された人の救助を始める。午後5時を回ったころ、一度学校に行ってみることにした。だが、そこで告げられたのは、「4人は自宅に戻った」という、思いもよらない事実だった。おそらく、津波が来る前に戻ってしまったのだろう。 その後、内陸の職場で働いていた妻・貴保(きほ、44)を迎えに行き、2人で市内の避難所を回った。「どこかで生きていてほしい」。しかし、どこにもいない。淡い期待は、次第に打ち砕かれていった。
長女の遺体を自ら安置所へ
車内で、ほとんど一睡もできずに過ごした上野は、翌12日、夜明けとともに自宅周辺の萱浜地区で捜索を始めた。集落の至るところに、犠牲になった人たちの亡き骸があった。みな顔見知りだった。 「地獄のような風景だった」と上野は言う。仲間と共に40人ほどを見つけた。そのたびに悔しくて、みんなで泣いた。 その中には、永吏可もいた。上野が自ら抱きかかえ、遺体安置所に連れて行った。同じ安置所には、上野の母・順子も運び込まれていた。しかし、倖太郎と父・喜久蔵は行方不明だった。
地震発生から3日後の3月14日、福島第一原発3号機が爆発し、国は原発から半径20~30キロ圏内の住民に「屋内退避」の指示を出した。萱浜地区は原発から北に22キロの場所にあるが、住民の多くは市を離れ、遠方に避難していった。 人けがなくなった街。それでも上野は残った。放射能のことなど、どうでもよかった。 「倖太郎を見つけるんだっていうことが、すべてだったので。そのためにここに残った。避難というものを選ばないで。倖太郎を見つけて抱きしめて、『ごめんなさい』って言わなきゃって」