「父には『ごめん』『ありがとう』『死んだらこまる』すら言えませんでした」青木さやか、母の看取りと「人生会議」を語る
母の人生に向き合うと、自分の人生にも向き合えた。『人生会議』は必ず自分の内面にも投影される
青木さんは、お母さまと向き合うことも大事だったけれど、こうして自分自身の記憶と向き合ったことが自分自身の『人生会議』になったと振り返ります。 「自分が母親を嫌いだとはずっと思っていましたが、なぜ嫌いなのかを掘り下げるのはつらいので蓋をしてきました。でも、母は自分のことを大事に思ってくれていたんだなと思えました。看護師さんたちが教えてくれるんです、母は私がテレビに出る日にその宣伝を一生懸命していること、私が東京から向かう日はカレンダーに赤く丸をつけていること、3時くらいに行くよと言って5時6時遅れるとすごく心配をしていること。そういえば実家に時間通りに行ったことがなくて、きっとずっと心配をかけていたんだなと気づきました」 お母さまは何十年も日記をつけていて、青木さんはその日記をこっそり見てお母さまが嫌いになったそうですが、看護師さんたちには見せていたそう。そのくらい周囲の医療関係者に心を開いていたのかもしれないと感じたそうです。 「ホスピスでの母との会話はいくつかあるけれど、美しいものではありませんでした。私はもうちょっときれいなものをイメージしていたけれど、普段の母のまま、むしろ苦手だった母の性格がより強くなって出てきてるなと思いました。個室の隣で寝ていると8時に『起きなさいみっともない』と起こされ、『布団をきれいに畳みなさい』」 そんなの誰も気にしないと思うのだけれど、お母さまはとにかく「外ではきちんとしなさい」「誰が見ているかわからないから」が口癖だったそう。 「『タオルもきれいに畳みなさい』『その引き出しにちゃんと入れなさい』『新しいのは下に入れなさい』。そういう母が好きではなかったけれど、そのおかげで私はちゃんとしてるように見えるし、お笑いで下品なことを言っても『青木さんは品があるからだいじょうぶ』と言われました。母のおかげかなと」
『人生会議』を行うメリットって? 青木さんの場合は「自分の人生の棚卸しでもあった」
こうして行った『人生会議』ですが、青木さんにとってはどのようなメリットがあったのでしょうか。 「これが『人生会議』だとすると、私にはメリットがありました。私は本を書きますが、その最大の収穫は自分の辛い記憶を過去にすること。書いている最中は自分の心の中をほじくる作業でとてつもなく辛いのですが、書き終わるとその悩みが過去になり、そこには私はもういないという感じになることです。読者の方が『お辛いことがあったのですね』と声をかけてくださるのですが、私の中では過去のことになっているのです。同じように、こうして向き合うことが私自身の『人生会議』だったのではないかと思います」 この意味では、こうした話をすることなく見送ることになったお父さまのことを今も思い出すと青木さんは言います。 「今日いろいろなお話を伺いながら父を思いました。父は愛知の田舎の病院にかかっていました。お金を出すから東京に出てきて最新治療を受けてくれと頼んだのですが、父はかたくなに断り『この病院でいいんだ』『ここの人たちがいいんだ』と言い張りました。結局その病院で亡くなったのですが、私自身が肺がんで入院したときにわかりました。心細いのだけれど、このお医者さん、看護師さんがきてくれるとすごく楽になるという経験があって。病院の方々には本当に助けてもらいました。改めて、父にそいういう思いをさせてくれた病院にものすごく感謝しています」