「父には『ごめん』『ありがとう』『死んだらこまる』すら言えませんでした」青木さやか、母の看取りと「人生会議」を語る
長年不仲の母と『人生会議』を行うため、車の中で大声で「お稽古」を続けて用賀から名古屋へ向かうが
しかし長年の不仲を抱えると、なかなか「きっかけ」を掴むのは難しいものでしょう。しかも、青木さんの場合、お母さまに親孝行をしてこなかったというわけではありません。「ですが、孝行の場でもいつもいつも、私の側が不機嫌だった」と振り返ります。そんな青木さんは、いよいよホスピスに向かう初日、お母さまに「決意表明」を伝えようと心に決めたそう。 「ここから母が亡くなるまでの時間を『機嫌のいい時間』にしようと思い、用賀から名古屋までの車の中で、顔つきと声をずっと練習しました。大きな声で『お母さん、私はいい子じゃなかった、ごめんなさい』『ごめんなさい、私はいい娘じゃなかった』『お母さんごめんなさい私はいい娘じゃなかった』」 車中の約2時間、そんなお稽古をひたすら続けて、病室の入り口をくぐるやお稽古の通りに大きな声で言いました。「お母さん、ごめんなさい。私はいい子じゃなかった」。 「そうしたら母は『何言ってるの、あなたはいつでもやさしくていい子だったでしょ』って。準備した言葉を言うことだけはできたけれど、その次を準備していなかったので、私はそのまま東京に帰ってきました。『人生の中で頑張ったことは何ですか』と質問されたら、これだなと思います」 青木さんは子どものころから「母はできのいい弟を大事に思っている、私は大事ではない」と感じていたそうです。しかしホスピスで「どうやらこの人は私のことを大事に思っているのだ」とういうことが心に入ってきたと言います。それはとても貴重な体験であり、また青木さんの自信にもつながりました。当時嬉しいと思う余裕はなかったものの、あとで考えたら大きな出来事で、またご自分の子どものころのことを思い出しもしたといいます。 「ホスピスでほとんど母の意識がなくなったとき、隣のソファに座って過ごせたことは、穏やかな時間でした。ふと新聞のテレビ欄を見ると、母が見たい番組に赤く印をつけて。そういえば子どものころ新聞受けから新聞をとってきて、家族全員が自分の見たい番組に印をつけていたな。そのころの自分の気持ちには好きや嫌いはなく、ただ穏やかないい時間があったなと、そんなことを思い出すことができました」