「プーチン圧勝」や「ほぼトラ」は何を意味する? 崩れ始めた「文明が進歩に向かっているという前提」
文明は誕生し滅びるのか
イギリスの歴史家アーノルド・J・トインビーは、人類の歴史を国家単位でなく文明単位で理解することを提唱し、シュメール、エジプトなどの古代文明に始まり、西欧、日本など現代文明に至る、数十に及ぶ文明の興亡を論じた。文明は誕生し、成長し、衰退し、滅亡し、あるいは周囲に衛星的な文明を生み、また次世代の文明に引き継がれるという考え方である。西欧の人が西欧文明の価値を相対化したかたちだ。 そこで、かつて幾多の文明が滅んだように、西欧文明、近代文明も滅ぶという想定が成り立つ。しかし僕は、たとえ西欧中心の時代が終わったとしても、加速度的な発展を続ける近現代の科学技術文明が衰退し滅亡に向かうことはないのではないかと考えていた。象形文字や楔形文字がなかなか解読できなかったような「知の断絶」をともなう文明の滅亡が今後も起きるとは考えにくいのだ。ちなみに文明とはシビライゼーション(civilisation)の訳であるが、集団的な都市化の体現としてもいい。 ポール・ケネディの『大国の興亡』(1987)では、スペイン・ハプスブルグ帝国から大英帝国、アメリカ帝国を経て、日本が次の世界の覇権を握るかのように書かれている。しかしこの本は、日本経済のバブルが弾ける寸前に刊行され、そのあとの日本の長期的凋落と中国の台頭が計算に入っていない。今日の状況は著者にとっても「まさか!」という以外にないだろう。 とはいえ本論の趣旨はそのような、大国(=帝国)の興亡論でもなければ覇権交代論でもない。本論では、この「普遍的価値観の崩れ」を人類全体の文明に関する問題としてとらえようとしている。
光の時代と闇の時代
結局、文明というものに、生物に似た性質があることを認めざるをえないのではないか。生物の遺伝情報は伝えられていくにしても、生物の個体あるいは群落や集団は、滅びることがあるように、科学技術という知の種子は伝承され進化を続けていくにしても、国家や社会制度は衰退しあるいは滅亡することがあるということである。 人間の知的普遍性を讃美するタイプのヨーロッパの知識人は、古代と近代の科学技術志向時代を「光の時代」とし、中世の宗教時代を「闇(暗黒)の時代」とした。しかし詩人で建築家で社会運動家であったウィリアム・モリスのように、近代(工業社会としての)より中世(手仕事社会としての)を思慕する思想家もいる。実際、近代という光の時代が、全人類にとって本当に幸せな時代であったのかどうかは疑問の余地があるのだ。 一条の光は、この暗転を西欧の普遍性から人類の普遍性への転換の始まりととらえることだが、それはまた遠い旅路となりそうだ。