「あなたが言ってることは現実的に無理」と言われた教育学者・苫野一徳さんの構想は、なぜいま「公教育の構造転換」を引き起こしているのか
全国各地で「公教育の構造転換」が起きている
――各地方自治体における教育政策の転換についても、お聞きしたいです。 苫野:たとえば、名古屋市が市をあげて「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への転換をめざしています。私も名古屋市教育委員会のアドバイザーとして5年前からかかわっています。 ――「NAGOYA School Innovation(ナゴヤ スクール イノベーション)」ですね。 苫野:名古屋市のような大都市が、自治体規模でこうやって教育を大きく転換させようとしていることは、日本の教育史においてほとんどなかったことです。これまでは、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」の実践といっても、せいぜい教室や学校レベルで起こる規模でした。その意味で、名古屋市が自治体規模で転換に取り組んでいることは、日本の教育全体に大きなインパクトを与えていると思います。 私は、広島県や、私の故郷でもある兵庫県の芦屋市などの教育にもかかわらせていただいているのですが、そのほかにも多くの自治体で同様の動きが起きています。こうした自治体は横のつながりも密にあって、互いに刺激し、励まし合って、私が仲間たちとともに「学びの構造転換」「公教育の構造転換」と呼んでいるゆるやかな転換の波が広がってきています。これも日本の教育史上ではあまりなかったことです。こうしたさまざまな自治体で、『教育の力』は、ささやかながら一つの教科書として参照していただいています。 全国の自治体でこの連鎖が広がっていけば、どこかで閾値を超え、全国でさらに教育の構造転換がゆるやかに進んでいくはずです。それがよいかたちで起きるようにしたいな、と思っています。
ゼミの卒業生が教師になって、学内で実践
――苫野さんの勤務校・熊本大学がある熊本市の教育はどんな状況ですか。 苫野:私は現在、熊本市の教育委員を務めていますが、この数年で大きく変わってきたのを実感しています。2020年2月末にコロナ禍で全国の学校が一斉休校に入ったとき、熊本市はすぐに全小中学校でオンライン授業を実現し、その先進性や柔軟性が注目されました。 「学びの個別化・協同化・プロジェクトの融合」も、少しずつ広がり始めています。その一つが、講談社のWEBサイト「講談社コクリコ」で連載された、熊本市立弓削小学校教諭(当時)・松永賢斗さんの実践です。(「【小学校教育2.0】熊本市立弓削(ゆげ)小学校・松永先生の挑戦」)彼は私のゼミの卒業生なのですが、学生時代は、オランダのイエナプラン教育や、全国の「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」の視察にたくさん一緒に行きました。その経験を通して、こうした学びの意義や、日本でも実現可能であることを確信したんですね。今では私の方が彼から学ぶ側だと思っています。 ――「講談社コクリコ」のこの連載では、松永さんが、学内でただ一人、自由進度学習(学びの個別化・協同化)を実践し始める過程が報告されています。「個別化・協同化・プロジェクトの融合」がどんな授業なのか、子どもたちがどんな反応をするのか、実際にどんな効果があるのか、リアルに伝えられています。一人で挑戦する松永さんの姿を見ていたベテランの先生たちが、やがて、私たちも実践したい、と、松永さんのもとに相談にきますね。「学び」に火をつける一つの契機に「感染する」ことがある、とおっしゃっていましたが(前回記事(「“心を燃やす”哲学者・苫野一徳さんが「愛の本質」を20年間考え続けるきっかけになった「人類愛の啓示」とは何だったのか」)参照)、苫野さんから松永先生への「感染」が、さらに松永先生からほかの先生たちに「感染」していったのではないでしょうか。 苫野:松永さんのクラスの子どもたちが、とにかく生き生き、楽しそうに学ぶ姿に、多くの先生方が打たれたんだと思います。学校教育は、ある意味で子どもたちの姿がすべてです。松永さんも、たくさんの視察を通して「見ちゃった、知っちゃった」という言い方をしています。その意義と実現可能性を肌で感じてしまった。そしたらもう、自分が実践しないという選択肢はなくなった、と。 今「学びの構造転換」「公教育の構造転換」がゆるやかに起こってはいますが、このような肌感覚と現場での対話なしに、トップダウンで進められてはいけません。まずは「見ちゃった、知っちゃった」を広げること、そしてそれについて対話すること。今うまくいっている現場には、必ずこの肌感覚の共有と対話の文化・仕組みがあります。 それからもう一つは、やっぱり「そもそも何のための教育か」をしっかり共有することですね。その点、原理においても実践においても、『教育の力』は、今後も一つの教科書であってくれたらいいなと思っています。 (聞き手・伏貫淳子)
苫野 一徳(熊本大学教育学部准教授)