「あなたが言ってることは現実的に無理」と言われた教育学者・苫野一徳さんの構想は、なぜいま「公教育の構造転換」を引き起こしているのか
教育学部に入って、愕然
苫野:教育学部に入った私は、衝撃を受けることとなります。「よい教育とは何か」「そもそも学校は何のためにあるのか」ということを探求している人が、教育学の世界にほとんどいなかったのです。よい教育とは何かを考えずに教育の研究や実践ってどうやるんだ?と、愕然としました。 その頃はちょうどポストモダン思想の全盛期で、よい教育なんてあるわけない、とか、教育なんてそもそも権力の営みだ、とか、近代教育を「相対化」する議論が流行っていた時期でした。それはそれで大事な仕事かもしれないけれど、でも、そんな考え方では結局何も言えなくなるじゃないか、と、私には思えました。 「教育とは何か」を探究し、一定程度の共通了解を見出し合わない限り、教育の実践も構想もできるわけがない――そう思い続けていました。 その後、先ほど(前回記事(「“心を燃やす”哲学者・苫野一徳さんが「愛の本質」を20年間考え続けるきっかけになった「人類愛の啓示」とは何だったのか」)参照)お話したように、「人類愛」教の崩壊で悩んでいるときに竹田青嗣先生に出会い、現象学を知り、「現象学の方法を使えば、教育の本質を解明することができる」という確信がやってきました。そうして書いたのが、私の初の著書である『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ、2011年刊行)です。 では、この本に書いた「よい教育」を具体化するにはどうするのか?――この問いへの答えが自分の中でまとまってきたちょうどその頃、現代新書編集部の山崎比呂志さんから「そろそろ実践編を書くべき時でしょう」と連絡をいただいたのです。そうして書いたのが『教育の力』です。
「現実には無理」と言われた教育構想の中身
――『教育の力』は、義務教育段階の公教育に焦点を当て、「よい教育」の実践方法について書かれています。 苫野さんは、まず、公教育とは何のためか、をこのように明確化します。 「公教育は、すべての子どもに、〈自由〉に生きるための“力”を育むことを保障するものであると同時に、社会における〈自由の相互承認〉の土台となるべきもの」(『教育の力』p.25) まさに、小学生の頃の苫野さんが学校に対して抱いていた疑問への答えのように感じます。 次に、苫野さんは、この目的を実現するために必要な教育を構想します。それは、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」です。「個別化」は、すべての生徒を一方的、一律的に教えるのではなく、それぞれの子どもに合ったペースや学び方で学べるようにすること。「協同化」は、必要な時に必要な人の力を借りたり、力を貸せたりする環境の中で、それぞれの個の学びが「ゆるやかな協同性」に支えられるようにすること。「プロジェクト化」は、子どもたちが、自分たちなりの問いを、自分たちなりの仕方で、自分たちなりの答えに辿り着くさまざまなプロジェクトを中心に学んでいく学び方です。 この学び方は、旧来の、先生が壇上から一方的に教える授業とはかなり異質ですね。学校関係者の反応はどのようなものでしたか。 苫野:出したのはもう10年以上前になりますが、刊行直後はあまり理解されませんでした。「あなたが言っていることは、理想かもしれないけれど、現実には無理だ」と、さんざん言われました。予想はしていましたが、悲しかったですね(笑)。「いや、できる。実際に実現している現場は国内外にたくさんあるし、教育の歴史や世界の教育動向、最新の研究などをちゃんと踏まえれば、これはむしろ当たり前の未来である」という確信がありましたから。 でも、刊行から10年たって、理解がじわりじわりと広がっていったことを実感しています。今では、国も、各地方自治体も、私がこの本で書いたような方向に転換し始めています。日本で公教育が始まって150年余りですが、今、150年ぶりに、学校教育のシステムが、ゆるやかに、しかし確実に、変わり始めようとしています。 たとえば、文部科学省は、令和3年の「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)」で、「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を打ち出しました。 『教育の力』出版後に改訂された現在の学習指導要領では、「探究」が大きなキーワードにもなっています。今、さらに次の学習指導要領の改訂の議論が始まったところですが、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」と軌を一にした方向性は、さらに推進されることになると思います。