「とにかく生きるのに必死だった」能登の大地震後、14人での共同生活がスタート。すし詰め状態でも、心をパンクさせないために「大切だったこと」とは
14人で3週間。ガレージでの避難暮らしを乗り越えるために大切だったこと
震災翌日、自宅に戻った千絵さんたちは、自宅の状況を改めて確認。すると、庭の大型ガレージに大きな被害がなかったことがわかりました。そこで、しばらくはこのガレージを生活拠点にすることを決意。家族・親族総勢14名で過ごす日々が始まったといいます。 「まずは自宅の2階にある寝室からベッドのマットレスを放り投げて降ろしたり、防災対策として買っておいたエアマットを膨らませたりして、寝床を整えました。 子どもたちは地震で味わった不安がありつつも、非日常の生活に小さな楽しみを見出しながら過ごしてくれました。こんな状況下でも希望を忘れない子どもの笑顔に、大人たちは救われましたね」と話す千絵さん。 とはいえ、被災直後の心理状態の中、普段は生活を密にしているわけではない身内と狭い空間で同居生活することにお互いストレスが生じるのは当然のこと。 「私たち家族と義母、私の両親、90歳を越えた義母の叔母……さらにあと2家族ほど。それだけ大人が集まれば、多少は思いがぶつかるのは当たり前ですよね。それに加えて、震災後はみんな頭も心もゴチャゴチャです。全体をまとめようと頑張ってくれていた夫も、疲れが溜まると余裕がない反応になる瞬間もありました。 ――多分、地震の直後は、みんな生き抜くことで頭がいっぱいなんです。食べて、トイレに行って、雨が降れば生活用水として確保して。とにかく必死なんですよね。ところが4~5日経つ頃には少しずつ周りが見えてきて、疲れが出てくる。他人の言動に敏感になったりするのも、ちょっと状況が落ち着いてきてからだったと思います」。
非常時の家族に大切だったのは、役割・距離感・いつもと変わらぬルーティーン
衝突や葛藤がありながらも、互いになかなか逃げ場のない状況下で、この時期ならではの家族のカタチを、千絵さんたちはどのように維持していったのでしょうか。 「一人ひとりがそれぞれの役割を果たすことがとても大切だと感じました。たとえば、料理が得意な人は料理を作る、話を聞くのが苦にならない人は聞き役に回る、という風に」。 誰かの言いなりになったり、非常時だからと我慢し合うのではなく、それぞれが無理なく発揮できる得意を持ち寄ってデコボコを補い合うことが関係を円滑にしてくれた、と振り返る千絵さん。 それに加えて、互いの物理的な距離を確保することも有効だったとか。 「ガレージ暮らしが始まって1週間ほど経つと、それぞれの家族が別の親族の家に泊まりに行くという工夫も始まりました。弟が暮らす金沢に私の両親が出かけたり、金沢のすぐ北にある内灘町の親族の家に私と子どもで泊まりに行ったり。 数日たてば拠点のガレージには戻るのですが、それでも違う場所や人と接すること、物理的に人との距離を取れることが大きなリフレッシュになりました。 あとは、寝るときだけは家の中で、ということも徐々に増えていきましたね。昼間にみんなで協力しながら荒れた家の中をせっせと片付けて、高齢者や疲れが溜まった人は家の中で休める環境を整えました」。 一方で、非常事態に身を置き続ける子どもたちへの心配も尽きません。千絵さんが大切にしたのはクールダウンのための日常でした。 「子どもたちは、この状況下の生活を前向きに捉えていましたが、それはつまりずっと興奮状態にあるということ。だからこそ、クールダウンできる“普通”をいかに作り出すかを意識しました。 お絵描き、雪遊び、家族みんなで楽しむカードゲーム……。食べて、寝て、話をして、いつも通りの方法で遊ぶ。生活環境こそ非日常でしたが、そんな時こそいつも通りのルーティーンをできるだけ再現するよう心がけました」。 こうしてガレージの屋根の下、家族関係と環境のチューニングを繰り返した千絵さんたち。日常を取り戻す準備を整え、徐々にそれぞれの家庭へと戻っていったのだそう。14人全員がガレージ暮らしを終えたのは、あの地震から、およそ3週間が経つ頃でした。 ▶つづきの【後編】では、震災後に育んだ「新たな親子関係」について、お話をお伺いしました。
ライター/矢島美穂