「とにかく生きるのに必死だった」能登の大地震後、14人での共同生活がスタート。すし詰め状態でも、心をパンクさせないために「大切だったこと」とは
車の中はすし詰め状態。暗闇に包まれ過ごした震災当日の夜
千絵さん一家は、夫婦と3人の子ども、洋人さんの母親の6人暮らし。歩いて数分の場所には、千絵さんの両親が暮らす実家があります。 「あの日は、夫と長女・長男は近くの私の実家に遊びに出かけて、風邪気味だった次女は私とお留守番。夕方近くになって、『ちょっと酔っぱらったから』と夫だけ私の実家から一足早く家に帰ってきました」。 当たり前のいつも通りのお正月。ところが、夫の帰宅から1時間ほど経った頃、のんびりゴロゴロしながらテレビを見ていた千絵さんたちを大きな揺れが襲ったといいます。 「その瞬間、実家にいる2人の子どものことが頭をよぎりましたが、まずは自分の身を守るので精一杯でした。夫は次女を迷わず抱え、寝転んでいた義母が立ち上がるのも待たず引きずって。『とにかく出よう、家の外に出よう』と、とにかく必死でしたね」。 揺れが落ち着いて間もなく、千絵さんの両親に連れられた我が子2人が帰宅し、ようやくお互いの無事を確認することができたのだそう。でも、その余韻に浸る時間などありません。お正月で帰省していた他の親族たちとともに、取るものも取り敢えず3台の車で避難所に向かったといいます。 「まずは向かったのは、家から一番近い小学校。そこまでの上り坂がめちゃめちゃに割れていました。それまでとはまったく別の風景でしたね。いざ到着した小学校は、被害が大きく立ち入り禁止。そのあと向かった中学校も、断水と停電。トイレも使える状態ではありませんでした」。 結局、近所の知り合いの家の駐車場に停めさせてもらい、車中で一晩を過ごしたのだそう。3台の車にそれぞれ4~5人が乗っていたといいますから、とても体が休まる状態ではありません。 「子どもたちはわけのわからない一日に疲れ果ててぐっすり眠っていましたが、車中はとにかく狭いんです。快適に過ごそうとしても、何も持たずに飛び出したから工夫のしようがない。そんなわけで23時ごろ、私と夫で荷物を取りに自宅に歩いて戻りました。停電で真っ暗でしたから、スマホの明かりをぽつんとつけて。その小さな明かりだけが頼りでした。 家に到着後はそのまま土足で上がり込んで、子どもの薬に靴に、毛布……手当たり次第にかき集めましたね。家に1台残っていた義母の車がパンパンになるまで荷物を詰め込み、家族のもとに戻りました」。 そうしてなんとか迎えた翌朝。昨夜夫婦で歩いた5分の道のりを改めて眺めてみると、地表から1メートルも飛び出したマンホールや、砕けた道路があちらこちらに。一度は頼った小学校は、玄関から崩れていたといいます。 「あの時は真っ暗だったから何もわからず歩けましたが、朝になってその風景を眺めたとき初めて、想像以上の景色の変わりように怖くなりました。『こんなに被害が大きい場所を通っていたんだ』って」と千絵さんは当時を振り返ります。