岐阜城が「天空の城」に? 織田信長の時代に近づける構想
岐阜市が策定し、このほど公開した岐阜城の整備計画案がとても興味深いものになっている。近年の発掘調査結果に基づき、織田信長が居住していた時代の姿に近づける構想だが、それがなかなか迫力ある「天空の城」のような風情なのだ。自他ともに認める「歴史マニア」の柴橋正直市長の市民討論会での説明や200ページにも及ぶ「史跡岐阜城跡整備基本計画(案)」から、その狙いや課題を読み解いてみたい。
近年の発掘調査結果を忠実に再現
岐阜城は岐阜市街地の北東にある標高329mの金華山に造られた城で、織田信長が1567年に斎藤道三の孫である龍興から奪って自らの城とし、安土城が完成するまで9年の間、拠点としていた。信長の死後は城主が何人も入れ替わり、関ヶ原の戦いの前哨戦で落城して廃城となる。 江戸時代は尾張徳川家の管理下におかれ、明治に入って宮内省御料局の管轄となり、公園などに活用が進む中、1910年、山頂に初代復興天守が建てられた。この初代復興天守は1943年に失火で焼けたが、戦後の1956年にコンクリートで2代目の復興天守が建てられ、以来、岐阜のシンボルとして市民にとって「あって当たり前」のものとして存在してきた。 しかし、「岐阜城というのは一般に認識されている山頂の天守のことでなく、麓の居館や庭園、そして山頂にある石垣や天守台など金華山全体。今回の整備は発掘調査の結果を踏まえて行われる」――。 9月26日、民間団体の「岐阜お城研究会」が主催した討論会「岐阜城の未来を語ろう!」で、柴橋市長は計画案のイラストを披露しながらこう力説した。 イラストで示された構想は、当時の石垣が残る山頂部分や滝のある山麓庭園を、市民や内外からの観光客が見て楽しめる状態にしようというものだ。ただし、観光用に見栄えのいいものを造ろうというのでなく、あくまで学術的な調査に基づいて行われるのだという。 岐阜城では2007年度から17年度にかけて、麓の城主居館跡の発掘調査が行われた。その結果、信長の時代にこの城を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記録に残したように、滝や池のある庭園や金箔瓦の建物跡などが発見され、この場所に信長が迎賓館とも考えられる豪華な建物や庭園を造っていたことがはっきりした。 一方、柴橋市長は自他ともに認める「歴史マニア」。2018年の就任後、さっそく金華山の山頂部分の調査を当局に指示。あまり遺構が残っていないと思われていた山頂部分からも次々と新たな発見があり、当時の遺跡が良好に残されていることがわかった。