防衛費増に走る日本政府が本来重視すべきは? 「コミュニケーション問題」としてのウクライナ戦争
現代日本の安全保障とコミュニケーション
現代の日本政治、特に安全保障のあり方にこのカテゴリーを当てはめてみる。 カテゴリー1・アメリカとのコミュニケーションは良好だが、そこに傾きすぎるきらいがある。独立した国家として多角的なコミュニケーションの拡大が期待される。 カテゴリー2・国内のコミュニケーションは、マスコミが重要な役割を担っている。政権批判の論調は見られるが、野党と同じで、対案をもって堂々たる論陣を張るまでにはいかない。結果として、世論全体が目の前の現象に流される傾向にある。「反撃能力」整備など巨大な防衛予算と増税をめぐる混乱も、安全保障にかかわるコミュニケーションの不全を表しているのではないか。 カテゴリー3・国民全体が幅広く世界とコミュニケーションする必要がある。日本人のマナーの良さとホスピタリティは評価されているが、ある一線を越えると心情的に排他的なところが表れる。若者の多くは他国と協調しようとしているが、かつてより内向きになっている部分もある。たとえばアメリカでは、子供のころから授業の中でディベートを行う機会が多く、その中で自分の意見を主張することや合意形成の仕方などを学んでいるが、日本では教師の授業を黙って聞くというのが一般的な授業風景だ。日本人が国際的コミュニケーションのスキルに長けているとはいいがたい。語学だけではなく、日本文化に普遍的な力を養成することが肝要だ。 今、政府はあわてふためいて防衛費激増に走っているが、ここで安全保障というものを、戦力の問題としてだけではなくコミュニケーションの問題として、日本文化全体の問題として考えるべきではないか。クラウゼビッツの『戦争論』における「戦争は別の手段による政治」という表現も、『孫子』における「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」という表現も、要はコミュニケーションを重視しろということではないだろうか。 紛争状況においては、視野狭窄と言論弾圧(日本では言論同調ともいえる)が、もっとも警戒すべきものである。