西武の松坂大輔が引退試合で”魂の5球”に込めた思いとは?
ここが「良い時からドン底」への分岐点だった。2011年にトミー・ジョン手術。2012年に復帰するが、その年を最後にレッドソックスを去り、翌年はインディアンズとマイナー契約、シーズン途中にメッツに移籍、2014年はリリーフとして新境地に挑むが満足な結果を残せず、そのオフにソフトバンクと3年12億円とも15億とも言われる巨額契約を結び凱旋帰国するが、故障に悩まされ、3年間で、わずか1試合登板に終わりファンの期待を裏切ってしまう。 引退会見で「辞めてもいいタイミングはあった。いつ気持ちが切れてもおかしくなかった」と明かしたが、この期間のことだろう。 松坂は行き場を失ったが、西武時代に投手コーチだった森繁監督に声をかけられて中日にテストで入団。カットボールをウイニングショットにするボールを動かす新スタイルで復活して6勝4敗の成績を残した。オールスターにも選出、特に阪神キラーとして存在感を示しカムバック賞に輝いた。しかし、それも1年。キャンプではファンに右腕を引っ張られただけで、そのガラスの右肩は潰れた。退団を申し入れ西武に電撃復帰した。 だが、故障との戦いは終わらなかった。 昨年の春先から右腕のしびれに悩まされ、新型コロナの影響もあり、満足に治療ができなくなって悪化。眠れず「精神的にまいるようになって」7月に頸椎手術に踏み切った。それでも症状は改善せず、引退を決断する決定的な事件が起きたのは、今年4月下旬のブルペンでのこと。「なんの前ぶれもなく」右打者の頭付近にボールが抜けた。抜け球の修正は指先の感覚でするのだが、痺れが邪魔をしてそれさえできなくなった。 「そのたった1球でボールを投げるのが怖くなった」 硬式ボールは凶器である。制御の効かないボールで打者を危険にさらすことはスポーツマンシップに反する。西武に移籍した際に、残り30勝に迫っていた日米通算200勝へ「無理だと言う人が多いと思うがあきらめることはしたくない。そういう気持ちでやっていれば届かない」とも語っていたが、「もう投げるのは無理だな、辞めなきゃいけない、と自分に言い聞かせた」らしい。 7月7日に球団から引退が発表された。その1週間前に治療の効果がないことに絶望して球団に伝えた。だが、松坂の肉声は一切出ないという異常な引退発表だった。また様々な憶測が飛び交ったが、その間の葛藤を松坂が明かす。 「最初はすぐに引退会見をする予定だったが、僕自身が発表はしたもののなかなか(引退を)受け入れられなかった。発表したにもかかわらず気持ちが揺れ動いていた」 自らの言葉で引退を語れば最後、もう後へは引き返せない。それほど「大好きな野球」への未練があった。しかし「発表をしてから、この何か月間、やれそうだなと思った日は一度もなかった」という。