西武の松坂大輔が引退試合で”魂の5球”に込めた思いとは?
この日の試合前にはナインに惜別の言葉を残した。 「23年やってきた半分以上は怪我と戦ってきた。やりすぎてダメなことはない。トレーニングや体のメンテナンスにはお金をかけてやってください。1年でも長くプレーできることを願っています」 これが故障との戦いに13年を費やした松坂の切実な思いだろう。 バッシングとの戦いもあった。ソフトバンク時代はSNSで「給料泥棒」と叩かれ復活を遂げた中日時代も2年目にはまた「松坂不要論」に火がついた。 「叩かれたり批判されたりすることを力に変えて跳ね返してやろうとやってきたが、最後はそれに耐えられなかった。心が折れた」 時には、心無い声は、元女子アナの妻・旧姓柴田倫世さんに対しても向けられた。 「妻とは“批判の声だったり叩かれることもたくさんあると思うけどちゃんと守っていくから“と言って結婚してもらったけれど、それができなくて申し訳なかった。妻も関係ないところで叩かれて大変だったと思う。気持ちの強い人でなかったので迷惑をかけた」 それゆえに会見で家族への引退報告に話が及ぶと「だから(泣いてしまうから)会見をしたくなかったんだ」と言って、涙があふれ、数十秒間、言葉に詰まった。 日米通算170勝108敗、防御率3.53の生涯成績を残した23年間を「長くやったわりには思ったような成績を残せなかった」と自虐的に表現したが、ただひとつ「褒めたいのはあきらめが悪いこと」と言った。 その原点は何か?と聞かれ「あきらめなければ最後は報われる。それを強く感じさせてくれたのは、甲子園のPL学園との試合」と、あの伝説の試合を口にした。1998年の夏の甲子園、準々決勝。伝説の延長17回の激闘である。8回に横浜高が5-5と追いつき、延長戦に突入。横浜高は11回、16回と2度リードしたが、同点とされ、最後は9-7で逃げ切った高校野球史に残るゲームで、松坂は250球を投げきった。 松坂世代と呼ばれた。 「その言葉は好きではなかった」が本音だが、「自分の名前がつく以上、その世代のトップでなくてはならないと思ってやってきた。それ(松坂世代のプライド)があったから最後まであきらめずにやれた」と振り返った。そして松坂世代最後の1人となったソフトバンクの和田毅に「僕の前に辞めていった選手たちが、僕らに託していたようにまだまだ投げたかった僕の分も毅には投げ続けて欲しい」とメッセージを送った。