「緊急事態宣言」と「日本特有の飲食店コミュニケーション文化」
日本の飲食店文化は格別
飲食店で提供しているのは、飲み物や食べ物だけではなく「コミュニケーションの場」である。騒がしい一杯飲み屋でも、静かな高級レストランでも、そこだけの場所、そこだけの景色、そこだけのインテリアがあり、そこだけのサービスがある。その総合が味だ。 それは世界共通であろう。イタリアでも、フランスでも、老若男女を問わずグラスを傾けながらワイワイと飲食店での会食を楽しんでいる。ドイツでも、イギリスでも、アメリカでも同じだ。むしろ飲食をともなう会話を主とするパーティーは向こうが本場である。 しかし日本ではそれに加えて、客が店の人と、あるいは他の客と、コミュニケーションする文化がある。 僕は家族を早く失ったこともあり、その寂しさからか、いつも行きつけのコーヒー店やスナックや小料理屋があった。それは飲食の場であると同時に、店の人とのあるいは他の常連客とのコミュニケーションの場であり、場合によっては勉強や仕事の場であった。酒場ではよく議論した。大学紛争のときはつかみ合いになるほど白熱した。小料理屋では女将がお袋の味を出してくれた。ベテランのバーのマスターは洒落た会話で、インテリのママさんは知的な会話で楽しませてくれた。心がくじけそうなときには慰めてもらえた。家庭でも学校でも職場でも教えてもらえない人生の裏表をそういった場で学んだのだ。とても感謝している。 みんな小さな、2、3人でやっている店である。そういった小さな飲食店には、意外に質の高いコミュニケーションがある。都市の中の「文化細胞」といってもいい。アメリカで客員研究員をしていたときに、そういった店の存在を説明しようとしたがなかなか困難であった。アメリカ人は、飲食店は飲み物と食べ物を売る店であり、女性が接客する店は性的な目的だと決めつけている。 こうした日本特有の飲食店コミュニケーションの文化は、御座敷と芸者という江戸時代からの伝統があったからかもしれない。宴会の文化も会話より歌や踊りが主であるし、カラオケという文化もその流れで生まれたのだろう。しかしカラオケは諸刃の剣のようなところがあって、コミュニケーションのボリュームを一挙に高める作用と、質の高いコミュニケーションを封殺する作用と両方がある。欧米にはイマイチだが、東アジア(東南アジアを含めて)には広く普及した。議論(ロゴス)と情緒(パトス)というコミュニケーション文化の違いか、日本発の文化に対する地理的歴史的政治的な感覚の違いか。 今、外国人観光客が日本のディープな文化に感心するのも、そういった小さな個性的な飲食店で提供されるきめ細かいコミュニケーションであろう。