「緊急事態宣言」と「日本特有の飲食店コミュニケーション文化」
小さな個性的な店
ところが、バブルが崩壊するころから少し様子が変わってきた。 街を歩くとチェーン店ばかりが目に入る。特に駅前などで、大規模再開発によって生まれるビルに入る店は、ほとんどがチェーン店である。 日本中どこへ行っても、同じ街並み、同じ店、同じ室内、同じ味、接客サービスもマニュアル化されているからロボットと同じだ。いや、今のロボットはそういった店のアルバイトより個性があって人間的である。飲食の場に、質の高いコミュニケーションがなくなってきたのだ。 当然ながら、数人でやっている小さな個性的な店は減っていく。文化細胞が死滅する。日本の高度成長を支えたのは、サラリーマンのストレスを発散し、慰撫してくれる空間としてのバーやスナックがあったからだという評論家もいたが、ちょうどそういった小空間が減るころから、日本の国力は衰退していったのだ。因果関係の論証は別として、日本的なコミュニケーション文化の衰退と国力の衰退は並行現象であるように思える。 これは都市の文化にとって大きな問題である。都市計画家にとっても、建築家にとっても大きな問題であるが、その職能は物理的な空間構成に限られている。再開発やビル建設の主体となる不動産業者や地権者の組合は、経済合理性の追求に忙しく文化の問題にまで頭がまわらない。自治体や地元の商店主などで意識の高い人は、文化の固有性、風土性という視点からまちづくりを考えようとするが、まだ大きなムーブメントにはなっていない。
チェーン店より「文化細胞」を守りたい
ウィズ・コロナを逆手にとって、飲食店を都市のコミュニケーション空間として考え直す機会とできないか。必要なのは、質の高いコミュニケーションの場を守ることであり、文化細胞を守ることである。 心配なのは、今回の特措法改正が、チェーン店を守り、小さな個性的な飲食店を打ち捨てる結果になるのではないかということだ。もちろんチェーン店にはそれなりの存在意義があり、最近は僕もよく利用するが、全国的にあるいは全世界的に展開するチェーン店は資金力の豊富な大企業である。たとえ協力金を得ても、仕事が減ればその分だけ従業員を減らすビジネス感覚の経営である。国民の税金から出される協力金の多くが、素早く対応できるチェーン店に流れ、対応に遅れがちな小さな個性的な店を救えず、都市の文化細胞が死んでしまうのは残念ではないか。 今必要なのは、まず、新型コロナウイルスによる直接的なものだけでなく、他の疾病に医療が対応できないことや失業による自殺なども含めて、全体的に国民の命を守ることだ。そして同時に、国の経済と文化を長期的な視点から考えて対策を打つことではないか。