ウクライナ戦争に考える 現代の領土拡張は得か損か?
領土拡張における「文明の必然」
ある国家が武力によって周辺の国あるいは部族を圧倒して領土を拡張し、広大な帝国を築いて、長期的な平和と繁栄を維持するケースがある。たとえばローマ帝国、イスラム帝国、中国歴代王朝(これが帝国であるかどうかは議論の余地がある)、ムガール帝国、オスマン帝国など、人類の歴史は帝国の歴史で満たされているともいえる。そういった古代、中世の帝国が領土を拡張するときには、二つのケースがあるようだ。 一つは周辺部族が明らかな文明的劣位にある場合である。僕は、高度に発達した宗教建築の様式をもつ国家は、同時に「文字と鉄剣」という国家力のソフトとハードを有し、その文化様式が広範囲に拡大すると考えている。たとえばローマ帝国がアルプス以北の部族を征服する場合や、中国の王朝が西域の遊牧民地域に領土拡張する場合がこれに当たる。もう一つは、周辺国の文明が老朽化し、組織の腐敗と構成員の安逸による弱体化が進行している場合である。たとえばローマ帝国がヘレニズム諸国家を征服する場合や、中国の王朝が老朽化して国が乱れ、新しい力によって統一される場合がこれに当たる。 このような場合には、武力による領土拡張が比較的スムーズに進み、征服者(国)あるいは統一者(国)の得になるのだが、それはむしろ損得を超えて、歴史の必然であるかのように進行する。一つは「文明の発展」における必然であり、もう一つは「文明の衰退」における必然である。
外洋型の領土拡張と資本主義型の拡張
16世紀以後は領土拡張に新しい事態が生じた。 まずスペイン、ポルトガル、続いてオランダ、イギリスと、外洋航路を開拓した西欧の勢力が、南北アメリカ大陸などを植民地化し、その資源と労働力を収奪することによる帝国化が常態化した。これまでにも書いてきたように、文明の発展は、ユーラシア(旧世界)の西から東へと横たわる帯状の地域(「ユーラシアの帯」)に集中していたのであり、その西端(西欧)の力が、外洋を越えて新世界の力を圧倒したのである。新世界は「未開」と呼ばれたごとく「高度な宗教建築と文字と鉄剣」のない世界であり、その大きな格差が「文明の必然」として作用した。そこに、それまでの「内陸型領土拡張」によって生まれた「内陸型帝国」とは一線を画す「外洋型領土拡張」による「外洋型帝国」が生まれる。 また、たとえば大英帝国の歴史が、直接的な植民地の収奪による第1期と工業資本主義を基本として成立する第2期とに分かれるように、19世紀以後は「領土の拡張」よりも「産業の利益」を目的とする「資本主義型拡張」が現象し「資本主義型帝国」が生まれる。 このときの植民地はかつての「新世界」のような「未開」ではなく、むしろかつては西欧よりも進んだ文明をもっていたにもかかわらず停滞がつづき、近代化にとりのこされた国々であった。近代文明という意味ではやはり大きな格差があったといえる。他者がダイナミックな発展を続けているとき、停滞は衰退と同義なのだ。しかしその拡張は、領土という土地よりも、資本主義による産業の拡張である。歴史とともに世界が狭くなり、地球全体の管理化が進むことによって、次第に、組織(国)の拡張は、土地としての「領土」の概念を離れていくようだ。 こう考えてくると、圧倒的な力をもつ国家の拡張が成功する(利得となる)場合、そこに歴史の哲理としての「文明の必然」がはたらいていなければならないということを感じる。とはいえ、その必然が「正義」であるという意味ではない。「文明の必然」は時に残酷な悲劇をともない、長期にわたる怨念を残すものだ。マルクスは資本主義の矛盾という文明の必然がプロレタリア社会を生むと考えた。残念ながらそれは誤算であったようだが、ロシアにしても中国にしても北朝鮮にしても、その誤算の残留エネルギー(怨念)が攻撃的なものとなって、現在の世界の平和をおびやかしているように感じる。文明の必然を読みあやまれば大きな悲劇(損失)がまっている。