給与や待遇はすべて日本人スタッフと同じ--「彼らとやっていく以外に、飲食なんて成り立たない」、吉祥寺・ハモニカ横丁の今#昭和98年
闇市の面影をいまに残す
終戦直後、吉祥寺駅前にできた闇市がハモニカ横丁のルーツだ。露天商が集まり、食料品や衣服や酒、進駐軍から流れてきた品などを売っていたそうだ。そこにバラックが立ち、やがて商店街に。東京西郊の吉祥寺には焼野原となった都心部から移住してくる人が増えたこともあり、庶民の生活を支える商店街としてずいぶん賑わったという。戦後復興の波に乗ったのだ。 しかし1970年代に入ると風向きが変わる。吉祥寺駅周辺にも大型デパートが続々とオープン。再開発からも取り残され、少しずつ寂れていく。
「シャッター通りで、真っ暗でしたよ」 1998年に横丁へとやってきた当時のことを、手塚さんはそう回想する。 「だから、ここならなんでもできるって思ったよね」 もともとはビデオ機材の販売業者だ。まずビデオテープの専門店をハモニカ横丁に開き、空いていた2階で焼き鳥屋「ハモニカキッチン」を始めた。これが評判になった。というのも、店はカフェバーのようなおしゃれな佇まいで、闇市の面影が残る横丁の中にあって奇妙なコントラストを見せたからだ。 それから手塚さんは名前も内装も一風変わった飲み屋を次々と横丁につくっていった。「モスクワ」という名のスぺインバル、隈研吾内装の焼き鳥屋「てっちゃん」、ローストチキンが専門の「ポヨ」……。昔懐かしい横丁を期待してやってきた人々は、見事に裏切られる。そこに面白さを感じるお客で、街はまた賑わうようになってきた。 「昭和レトロという一言で横丁を消費されないように、いろいろ考えてきたよね」
横丁で稼ぎ、家族を養う外国人
横丁再興の仕掛人とも呼ばれた手塚さんの次なる挑戦が「外国人との共存」だった。飲食の世界で働こうという日本人がだんだんと減り、代わりに外国人が仕事を求めてやってくるようになったからだ。ネパール人のアルジュン・タパさん(34)もそのひとりだ。 「VICで働いてもう9年ですね。はじめは留学生で、アルバイトだったんです」 先に日本に来ていた友人に誘われ、自分も留学してみることにした。新大久保の日本語学校に通いながらVICでのアルバイトを始めたが、すっかり面白くなってしまった。 「いろんなお客さんと会話して、日本語に慣れていって、毎日新しい言葉を教えてもらって。むしろこっちがほうが日本語学校みたいだった」