【証言・北方領土】択捉島・元島民 長谷川ヨイさん(3)
終戦から1年後、強制送還された
―島を離れたのは1946年の何月? 8月。
―敗戦からちょうど1年。 そう。8月の終わりころで、青森に着いたのは9月。行き先、決まってたから、函館で降りてすぐ1週間も経たないうちに青森行ったからね。 ―それは強制送還? そうそうそうそう、強制送還。 船だってね、樺太まではね、ソ連の船なんだ。貨物船。もう子供たちなんかね、一人ずつ、貨物船の網の中に子供たち入って、バーってウインチで上がってって、荷物入れる。そして、船酔いして、船酔いして。乗船する前にね、どこかの島の女の人がロシアの男と逃げたとか、なんとかでね、なかなか乗船できなかったのさ。とうとう見つかって乗ったんだけど。そして、貨物船でしょ。もう揺れて、揺れてね、その荷物入れるとこが満杯んなって、甲板にもね、寝てたね。 おトイレがないからね、にわかに作ったのかね。波がバッと甲板洗うでしょ。そしたら、汚物がバーっとあの甲板流れてきてね、すんごいね、汚かった。そしてね、おトイレまで行くったら、このくらいのはしごな、上ってくんだ。ま、子供だったから身軽にパパパパパ上がってたけどね。 そして、着いたとき、すぐね、風呂入れられたの。ったら、母がね、「いやあ、昔ね、こんなことあったからね、風呂行ったら、ガス釜に入れられて殺されたから、母のそばから離れるんでないよ」ってね。そしてね、脱いだものはね、みんなね、消毒するのね。行って、戻ってきたから、誰のだか、わけわかんないものばっかりね、そっから探しましたよ、みんなでね。
銃の先で突かれた
そして、今度、収容所にね、行くのにね、また列なって、坂道のぼってね、兵隊がね、早く歩けってな、銃の先でな、おしりボンボンね、ドン突かれてな、行ったのね。そして、仮収容所行ったらね、順番、順番に、一斗缶にまき炊いて、そして、そこでは飯ごう持ってたから、こっから、みんな、ほら、引き揚げのとき、ほんの3時間か4時間くらいでね、もう内保、支度してって。だから、写真だとか書類なんてね持つ時間なくて、それから、子供ばっかりだから、食べるものばっかり持ったからね。 お米とか、味噌、日本の軍隊がどうせあれだから、みんな持ってきなっちゅってね、米とか乾パンだとかね、運んだんだ。だから、米でもね、引き揚げてくるまでね、米残ったの残してきた。で、その乾燥したみそ、持ってきてたから、味噌汁炊くのにね。真岡にはね、まだ韓国の人方がね、女の人方がいてね、キュウリ売りに来てたの、8月だからね。みそにキュウリ、生キュウリつけたおつゆと、あとご飯だけで食べたの。ね。 それから、あれ1週間もいないな、5日ぐらいだかな、今度、本当の収容所行ったでしょ。ったら、もうそんな煮炊きなんかできない、ソ連のこんなちっちゃなこういってパンの、こんな薄い一切れね、ほんの小さい、こんなのに、カップに、スープみたいの、あれだけしか出ない。して、朝なるとね、トラックが来てね、キャベツ工場に働きに連れて行かれて。あれなんか、5日も10日もいたなんて、みんな、あんた、栄養失調になって死んだべさ。