【証言・北方領土】択捉島・元島民 長谷川ヨイさん(3)
―貴重な写真。 うん。これ、だってね、持ってこれないんだけど、ほら、兄弟とかいとこが青森にいるから、島にいるころ、ほら、兄弟では送ったり、送られたりしたから。青森行ってからね、「こんなのあったよ」ってもらったの。私がもらったわけでない、兄弟がもらったんだけど、私の手に、ね、今あったから、いまだにあるのさ。そうでないと、もう写真なんてね、ないんだ、みんなね。だから、これ、こんなだ。ね。昔、白黒しかないから。 うちにもカメラあってね、あったんだけどさ。写しても、ほら、焼き増しとかなんかは根室まで、定期便でやってもらってたから。(でも)あんた、そんな写真どころの騒ぎでないしょ、あんた、食べるもの持ってこなきゃないから。 そして、引き揚げのときに、うちの母がね、具合悪くってね、もう、辿り着くまで生きているかなというくらいね、あれだったの。下の子産んだときね、出血多量っていうのか、それでね、根室の病院も来てたんだけん、なかなかよくなんないで、そして、引き揚げてきたからね。それでも、あんた、84歳までね、生きた。
学校で語り部活動
私ね、今、84歳でしょ。うん。だから、もう私も親も兄弟もみんな84なったら、ね、死んでる。私よりね、上の人たくさんいたんだけどね、みんな死んじゃってね、私だけんなっちゃったよ。だから、私にこういう語り部さんなんて回ってきちゃったべ。ね。 今度、忙しい、何か知らない、何でか知らないけど、学校の子供たちに、「後世に残そう 北方領土」でね、講演があるのよ。だから、今月何ぼあるんだ。二つかあった。うん、歯舞小学校と、中標津中学校と、根幌まで。1時間びっしりね、記憶だけでしゃべる。 ―次の世代に、北方領土のことを伝えることの意味、意義とは。 やっぱり、私はこう考えるよ。だって、この島はな、日本で一番おっきい島でしょ。ね、資源も豊富だし、やっぱりね、ここが日本に返ってくると、根室はすごく潤うし、北海道だって、すごく潤うと思う。 苦労して、あんた、それこそ、昔、戦前たちは、ね、築いた島なのに、思うよ。でも、私、この島返ったらね、養老院を建てようと思ってるよ、ここへ。だって、土地いっぱいあるでしょ。あとはな、国に何とかお願いして。年金が少なかろうと、多かろうと、みんな入れて。 ったらな、うちの弟言うのね、「姉さん、あんた、何ぼまで生きる」っちゅうてね、私、「あとどうすんのよ。いつになったら、返ってくるのよ」なんて言うけどな、「あんた、夢持ちなさい」ってな。私が死んだら、誰かやりたい、跡継ぐ人いるべさ、親戚でなくて、兄弟でなくてもねえ。だから、そういう夢見るよ。 ―戦後、最初に島へ行ったのはいつ? 私はね、あれ、根室でないから、旭川だったでしょ。旭川だから、主人がね、あんまり嫌いがるのよ。ね。「北方領土行ってくるよ」ったって、何か嫌がって、嫌がってるのに行ったってね、行ったってやだわと思ってさ、主人が亡くなってから、こうやっていっつも歩く。もう亡くなってから20年近いからね。