大河『麒麟がくる』の文化論 「桂離宮の文学的設計者・細川藤孝」と「時代唯一の近代人・織田信長」
藤孝は桂離宮の文学的設計者
そして僕が、戦国武将である細川藤孝と桂離宮の造営者である八条宮智仁親王の二人に、きわめて強い文化的な結びつきがあることを感じたのは、徳川家康没後400年を記念して2015年に江戸東京博物館で開かれた「大関ヶ原展」で、八条宮が藤孝に宛てた手紙を見たときである。 本物の肉筆の手紙というのは、内容を活字でプリントしたものとは異なる、送り手と受け手の「心の伝達力」を放つものだ。ある種のオーラが感じられた。藤孝が関ヶ原に絡む戦いで命を落とすことによって日本文化の継承が途絶えることを心配する八条宮の手紙の行間に、この二人のきわめて親密な情感が漂っていた。 このころ藤孝は、八条宮を後継者と定めて「古今伝授」を相伝し、以後の天皇家を中心とする古典文化の継承に重要な役割を果たした。関ヶ原以後の藤孝は京で悠々自適の生活を送ったが、その間、八条宮に『源氏物語』に関するさまざまな講釈を行ったことは想像に難くない。八条宮が桂離宮を造営するのは藤孝の死後であるが、いろいろと相談した可能性もある。僕はこの手紙を見て、藤孝こそ桂離宮の「文学的設計者」というべきではないかという考えをもった。その一点のみにおいても、建築家としてはこの細川藤孝という武将を高く評価せざるをえないのだ。
タウトの評価と信長のモダニズム
さて昭和の世になって、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが来日し「桂離宮はモダニズムである」と絶賛して、この造園と建築の融合空間は、海外でも知られるようになった。そして日本人は、明治以来打ち捨ててきた感のある過去の伝統を、ヨーロッパの建築家が必死で打ち立てようとしている「モダニズム」だといわれたことにおどろいたのだ。 たしかに桂離宮書院の細い木組のシンプルな美しさ、古書院から月見台を望む障子と風景の絶妙な組み合わせ、松琴亭の襖の市松模様、笑意軒のビロード張りの腰壁など、桂離宮の建築意匠は若干のエキゾティシズムを含んだモダニズムといっても決して誇張ではない。 最初の天主閣 としての安土城を建てた織田信長の建築観については別に書いてみたいと思うが、彼の行動には一種のモダニズム(近代的機能主義)が感じられる。この時代に日本を訪れて、信長と何度も面会し膨大な記録を残したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、信長のきわめて科学的な側面を記している。信長はこの時代唯一の、「世界」というものを意識した近代人であったかとも思われるのだ。一方の藤孝は、この時代唯一のといってもいい古代文化の継承者であった。おそらく藤孝は信長という革命児に出会って、無意識のうちにも日本の古代文化がよみがえる気配を感じたのではないか。文化継承者としての達観というべきか。実はこの時代、西欧においても、古代ギリシャ・ローマの文化がルネサンスとしてよみがえる現象が起きていた。「南蛮」が日本にもたらしたものは、鉄砲とキリスト教ばかりでなく、一種の「世界観」としてのモダニズムでもあったのではないか。 この二人と比べると、光秀はあくまで中世的な文化人(当時の武将の中では文化的)であった。それが、藤孝が足利将軍家を見捨てて信長につき、光秀がそれまでの価値観を捨て切れず本能寺の変を起こし、そのとき藤孝が光秀に味方しなかった理由となる文化的な構図ではないか。 もちろんこれはひとつの仮説であるが、この時代、戦いを主とするドラマでは描き切れない文化的エネルギーが武将たちを動かしていたのだ。彼らの異常ともいうべき「茶の湯」への傾倒もその証左だろう。この文化には、日本文化の伝統をモダンにつなぐ不思議な力が秘められている。人の心の深部には、近代的な合理性の価値観だけでは測れないマグマのような文化的動因が隠れている。 なお、第79代内閣総理大臣であった細川護煕氏は、藤孝に始まる細川家18代当主であり、現在は陶芸に打ち込んでいるが、なかなかのものと思われる。血筋というべきか、環境というべきか、「家」の力というべきか。