大河『麒麟がくる』の文化論 「桂離宮の文学的設計者・細川藤孝」と「時代唯一の近代人・織田信長」
藤孝=幽斎と『源氏物語』と桂離宮
細川藤孝は細川幽斎として知られる大文化人であった。僕がこの人物を最初に意識したのは、若いときに読んだ内藤湖南の「応仁の乱について」と題する文章においてである。門人の一人が「世間の便になる書は何か」とたずねたところ、幽斎は『源氏物語』だと答え、さらに「歌学の博学に第一のものは何か」とたずねると、これも『源氏物語』だと答えたというものだ。 「古今伝授(古今和歌集の解釈学を秘伝として伝える)」を受けた幽斎=藤孝(以後藤孝に統一)であるから、歌学については当然『古今和歌集』をあげるべきものと思われるが、あえて源氏をあげたことに少しおどろいた記憶がある。そしてそのことが、藤孝と桂離宮の関係につながる。 桂離宮にはいろいろと縁があって、学生時代から何度も訪れている。特に僕の高校と大学の同級生である斎藤英俊君(京都女子大学客員教授)が昭和の大修理を担当して、桂離宮研究の第一人者となっているので話す機会も多い。 造園と建築がみごとに調和して、日本人の美意識をもっともよく表現する空間であるといっていい。もちろん日本文化の原型として伊勢神宮をあげ、仏教に対する古代人の思慕を証するものとして法隆寺をあげることはまちがっていないが、平安王朝時代の雅びた「もののあはれ」の美意識から、室町を経て安土桃山時代の作庭と茶の湯につちかわれた「侘び寂び」の美意識までを融合する空間として、桂離宮に及ぶものはない。外国から来た建築家に見せるべき第一のものはこれだろう。サン・ピエトロ寺院や、ベルサイユ宮殿や、紫禁城(故宮)に優るとも劣らない、日本文化の空間的至宝といっていい。 少し前までは、小堀遠州の作としてさまざまな伝説があったが、昭和の大修理などの知見もあって、現在ではこの離宮を造営した八条宮智仁親王とその子智忠親王の二代が主たる設計者であるとされている。
文学(虚構)の空間が現実の空間に
僕は大学の教官になってから「文学の中の建築記述の研究」を始めたのだが、『万葉集』に次いで『源氏物語』が大きな山であった。研究を進めるうち、この物語が「華(はなやかさ)」と「寂(ものさびしさ)」との二系統の空間で混成され(拙著『「家」と「やど」ー建築からの文化論』朝日新聞社刊 ・参照)、それがいくつもの恋愛情緒のバリエーションを表現していることに気がついた。そして『源氏物語』の空間情緒と、桂離宮の空間情緒が不思議なほど重なっていることを感じていた。それはひとつひとつの具体的な部分のデザインというより、「華の空間」と「寂の空間」が四季の移り変わりにしたがってつむぎだす全体的な感覚においての重なりである。 斎藤英俊君も『源氏物語』と桂離宮に深い関係があることを指摘している(たとえば『千年の息吹・京の歴史群像』・京都新聞社1993)。というより、彼の方が実証的である。そしてこれは日本の建築と古典文学の両方に詳しい人物なら自然に感じることではないだろうか。もちろんそういう人は多くはないだろうが、『源氏物語』の空間情緒と桂離宮の空間情緒が重なることを実感するのは、日本文化の本質を理解するうえで貴重な意味をもつと思われる。虚構の空間と現実の空間は、あざなえる縄の如く絡み合って、文化の歴史を織りなしているのだ。