伊藤比呂美「終わらない仕事」
父がまだ生きていて熊本で独居していて、あたしは必死でカリフォルニアから帰ってきたり、日に三度電話したりしていたときのある日、電話で「仕事が終わったのよ」と言ったら、父が「おれは終わらないんだ」と言った。「仕事がないから終わらないんだ」とも言った。深い、と感動した。 今あたしは、父のあの境地に近づいているのではあるまいか。時間を拘束される予定なんてズンバだけだ。日本語をしゃべる相手もズンバのアヤ先生だけの日もある。 いやいや、拘束される予定がもうひとつあった。ゴミ出しである。 うちの地域は、月曜は生ゴミ。火曜はプラごみ。洗って乾かして出してるから、一週や二週出さなくても大丈夫。水曜は紙ゴミ。何週間置いておこうがいっこうに困らない。木曜はまた生ゴミ。金曜は隔週で資源ゴミや埋め立てゴミ。これもすぐに出さなくても困らない。つまりゴミ的には月曜と木曜の朝が一週間のハイライト。台所の生ゴミだけじゃなく、犬のおしっこシートや猫砂もたまっているから、何がなんでも起きねばならぬ。 お役所からのお達しには八時半までに出せと書いてあるが、ありがたいことに、月曜の収集はかなり遅い。十時ごろに来る。木曜は少し早い。 こんなによいシステムだというのに、ある月曜日、あたしは起きられなかった。 その前夜はやっぱり仕事が終わらなくて、深夜以降はNetflixでなんか見ながらやってたから、ますます終わるわけもなく、あきらめて寝て起きたら11時をとうに過ぎていた。飛び起きて外に出てみたら、ゴミ出しの場所にはもうなんにもなく……。 昔、そんな夢をよく見た。「はっと目がさめたら起きる時間を過ぎてた」という。 夢の中で飛び起きて、取り返しがつかないと思ったときの絶望感はものすごい。現実でそういう経験をしたからそういう夢を見るんだろうが、現実より夢のほうが絶望度が増幅されていて。ゴミを出せなかった日、あたしはこれから「ああっ間に合わなかったっっ」という夢を、何度も見ることになるんじゃないかと思った。怖かった。 とにかく朝は起きようと思った。退職後の自暴自棄、おっとまた間違えた、悠々自適と言おうとして、悠々じゃないから、つい間違えるようだ。でも、だからこそ大切なところかもしれない。だからゴミ出しが朝に設定されているのかもしれない。
伊藤比呂美