伊藤比呂美「終わらない仕事」
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。今回は「終わらない仕事」。めったに東京にも行かなくなり、熊本で悠々自適な生活を送るはずが――(画=一ノ関圭) * * * * * * * こないだ熊本空港のANAの受付カウンターで、顔見知りの職員から、この頃あまり東京に行かれないんですかと言われた。 あたしは今年からマイレージのゴールドメンバーじゃない。だから荷物につけるタグもプレミアムじゃない。飛行機に乗りすぎて、日本に帰る前はユナイテッド航空のゴールドだったし、帰ってきてからはANA(ユナイテッドと同じグループ)のゴールドだった。「仕事を退職したので行かなくてよくなったんですよ」と答えたけど、「たいしょく」と言ったとたんに、あたしの耳元を、ひううと風が吹きぬけた気がした。 退職。周囲の誰彼が退職したというのを聞くにつけ、あっしには関わりのないことでござんすと考えていた。だってフリーランスの詩人なのだ。基本的にはいつまででもできる。しかし早稲田で教員を三年間やった。その結果として、三年契約が終わった。というより、年も年なので、定年退職した気分なんである。 そのとき世界はコロナの真っ最中で、最後の授業もZoomだった。終わったときもハグするとか花をもらうとかそんなことは一切なくて、「じゃあね」とZoomを切ったら、それでおしまい。コレモアタシノ人生ダ。――なんとなくカタカナで書きたくなりました。 今はめったに東京にも行かなくなり、熊本で、自暴自棄の、おっと間違えた、悠々自適の生活を送っているとも言えるのだが。
詩人の仕事は続くから、今も、朝起きたら仕事を始め、夜寝るまで仕事をする。それが基本の生活だ。考えてみれば、子育て中も、カリフォルニアでもそうだったし、早稲田を退職したって、何も変わらない。 それなのに、なんだか違うのである。 今は東京に行かなくていい。家族の世話や家事だって、犬猫にゴハンやってトイレを片づけ、犬猫の毛を掃除機で吸ったら、あとは一日二回クレイマーの散歩をするだけ。 仕事する時間なら、無尽にあるはずなのに、仕事がなかなか終わらない。こりゃなんとしたことか。 以前はもっとちゃっちゃと終わらせていたような気がする。それなのに今はほぼ毎日、仕事が終わらないまま夜が更ける。丑三つ時である。三時もすぎる。しかたがない、また明日やろうとベッドに入る。そして寝る。罪悪感がないのである。 朝はあたしが起きるまで、犬猫どもはくんともすんとも言わない。三匹はあたしのベッド、ニコが枕元、テイラーが脇、チトーが足元にいて、クレイマーは手を伸ばせばさわれる床の上にいる。メイは家の中のどこかにいる。毎日、この配置である。 老犬ニコ(もうすぐ十九歳)は枕元で、あたしにぴったりくっついてよく寝ている。寝てるんじゃなくて死んでるのかと心配になり(父や夫が老い果てたとき、ときどき心配になっていたことだ)、そっとなでてみると、びくりとする。起きなくてもいい、生きてろ、生きてろと思う。 起きなくてもいい。これがあたしの日々のリアルなんである。