笹島康仁

「ふるさと」の記憶つなぐ―― 日本一のダムに沈んだ村で

3/1(木) 10:02 配信

日本一の貯水量を誇る「徳山ダム」は、岐阜県西部の揖斐川(いびがわ)町にある。福井との県境に近い、美しいダム湖だ。しかし、その下に「徳山村」があったことは、少しずつ忘れられている。高度経済成長期、日本では多くのダムが計画され、いくつもの集落が湖底に沈んだ。徳山村もその一つで、旧村民たちは「わがふるさと」の記憶を今も懸命に引き継いでいる。帰れなくなっても「ふるさとはふるさとだ」と。あなたのふるさとの記憶は、どう引き継がれているだろうか。(笹島康仁/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「雪、こんなもんじゃない」

雪の積もる国道417号の山道を北上していくと、「全面通行止」の看板があった。つなぎ姿の男性が2人、車を降りて震えながらタバコをふかしている。「奥は雪が2、3メートルもあって面白いけど、連れてけねぇよ。俺らが怒られちまう」。2人はこの先で道路工事に携わっているという。

徳山村があった土地へ続くトンネルの入り口。この先は工事中で、冬は「全面通行止」(撮影:笹島康仁)

トンネルの先には、住民のいない土地が続く。そこが「徳山村」のあったエリアである。

ダム湖近くの「徳山会館」館長・中村治彦さん(57)に「全面通行止」の写真を見てもらった。「こんなもんじゃないよ、徳山の雪は。もっと雪が積もる。奥に行けば行くほど、何メートルも」。会館への道が閉鎖される冬場、中村さんはスキー場で働いている。

中村治彦さん。勤務先のスキー場の食堂で(撮影:笹島康仁)

「冬になると、屋根の下に『雪囲い』を作って、ビシーッと家の周りを覆う。だから、家の中が真っ暗け。その分、春が好きでね。積もった雪を削っていくと、土が出てくる。土に匂いがある。土は温かいから、湯気が出始めるんですよ。僕らの中ではこれが春。桜じゃなくてね」

冬の徳山ダム。前日は吹雪だったという(撮影:笹島康仁)

徳山ダムの計画は1957年に浮上した。

高度経済成長に向かっていた当時の日本では発電所の計画が相次いだ。有名な「黒部ダム」(富山県)の着工は56年、福島県が大熊・双葉を原発立地の「適地」としたのは60年。大熊・双葉エリアではその後、東京電力が福島第1原発を完成させている。

一方の徳山ダムは、住民の反対などで10年以上も塩漬けになった。

次に動きだしたのは71年だ。当初の電源開発だけでなく、水資源の確保や治水も目的に加わり、水資源開発公団(現・水資源機構)などが村民との補償交渉に乗り出す。89年に全466世帯が移転契約を終え、ダム本体の着工は2000年、完成は08年。計画から完成まで実に半世紀を要した。

『徳山ダムの記録 徳山村』は、徳山村と合併した藤橋村(現・揖斐川町)の名で刊行された。「昭和50年代は、交渉の日々」とある(撮影:笹島康仁)

「どこかで自分を納得させ、村を出た」

徳山会館は沈んだ村の記録を残し、旧村民が集う場所だ。展示室には、村の四季や人々の生活、ダム建設などの写真がふんだんにある。

徳山会館の展示室。他界した男性の写真を見つけ、涙を流す旧村民の女性(撮影:笹島康仁)

館内を案内してくれた中村さんは笑顔のまま、「ぼく自身は、ダムは嫌い。大嫌いです」と言う。

「(旧村民は)いろんな事情があって最終的に村を出ることを決断した。『こんな所におるより、金もらってまちへ出たほうがいい』と言う人も、『金なんかいらへん、ずっとここにおりたいんや』と言う人もいた。どちらにせよ、仕方がなかったんやと、どこかで自分を納得させたんです」

地域史をひもとくと、「徳山」には縄文時代から人が暮らしていたという。その土地が貯水量6億6千万立方メートル、浜名湖の約2倍という「貯水量日本一のダム」に沈んだ。

「ダムは嫌い」と中村さん。徳山会館で(撮影:笹島康仁)

「ぼくや親父は最後までしがみついた。でも、ダムで得たお金でまちへ出て、子どもたちを学校に通わせることができた人もいる。『嫌い』と『良かった』の両方は矛盾しません。人の気持ちを、裁判みたいにパンパンと分けるのは無理……。一方、補償金が『十分』ということもないです。引き換えに失ったのは、ふるさとやから。徳山の人たちは、先祖から受け継いできた土地から引き剥がされる思いで(土地を売る契約の)ハンコを押したんです」

徳山村自体は、全世帯の移転契約が終了する直前、1987年に隣村との合併で消えた。「廃村」から31年。それほどの年月を経ながら、徳山会館は「村の記憶」にこだわっている。

徳山会館では、徳山村の景色や歴史を知ることができる(撮影:笹島康仁)

中村さんは言う。

「水の底であっても、自分たちのルーツがある場所。そのために、徳山会館を持続させるのがぼくの仕事です。引き剥がされる思いをした人たちも、あと何年かでいなくなっちゃう。『徳山』を残すために、今は本当に大事な時期です」

湖の上からでも「自分の土地は分かる」

徳山会館では年に1度、「ふるさと会」が開かれている。

8回目は2017年10月中旬、小雨の日だった。マイクロバスが着く度、小さな会館に十数人単位で人がなだれ込む。旧村時代を知る人やその子ども、孫ら約150人が集まり、「元気そうで!」「お久しぶりでございます」というにぎやかな声が飛び交った。

ふるさと会に集まる旧村民たち(撮影:笹島康仁)

北村光春さん(69)は会の立ち上げに関わった1人だ。36歳で村を離れ、集団移転先の岐阜県本巣市で新生活を築いた。村を出てしばらくすると、村民が顔を合わせるのは葬式ばかりになり、「葬式でない日にみんなが集まれる日」をつくりたかったという。

みんな歳を重ね、自力で参加できる人は年々減っている。それでも旧村民たちにとっては特別な1日だ。

船に乗り、ダム湖を巡った人たちもいた。案内役の神足まゆみさん(70)が「いら(私)はきょう、戸入(地区名)弁で案内します」とマイクで呼び掛け、約30人を乗せた船はかつての「村」の上の湖面に滑り出た。

孫を背負った男性は「見るとこ見るとこ、みんな懐かしい。(水面に先の出た)立ち木だけでどこか分かる」と言う。

孫を連れて船に乗った男性。「立ち木を見ただけでも懐かしい」(撮影:笹島康仁)

一眼レフカメラで周囲を熱心に撮影していた山本吉朗さんも、立木の姿で自分の住んでいた地区が分かる。

「ひときわ大きい木が出ててな、そこは村にとって最後のバス停があったとこ。家はその目の前だった」

会では再会を懐かしむ輪があちこちに。元教員の遠山夏子さん(84)=左端=は初任校が徳山中学校。教え子らと思い出を語り合った(撮影:笹島康仁)

ダム推進の男性「説得に回ったよ」

会の最後には徳山踊りが披露され、みんなで踊った。その音頭を取った小西順二郎さん(72)はダム建設の推進派だったという。

「反対する人がいたら、おれが説得に回った。公団が困ってたら『1週間待ってろ』って言って、そいつ(移転契約の印を押さない人)の家に行って、言うんだ。『自分の力だけじゃ村を出れない。あんたが反対すると、みんなが困るんだ』って」

その小西さんは今、「村に帰りたい」「寂しい」を繰り返す。

「間違ったことをしたとは思ってない。けど最近、よく夢を見る。村でみんなと遊んでたころの夢。船の上から『懐かしい』と言う人がいるけどな、おれは懐かしくない。ただ、寂しい。おれらの世代は今からでも戻りたいよ」

「山の生活が一番よかった」と小西順二郎さん。揖斐川町の自宅で(撮影:笹島康仁)

かつては集団移転先の団地ごとに「徳山踊りの会」があった。ところが、高齢化や「音楽がやかましい」という苦情などで次第にしぼんだ。なくなった会もある。今も本巣市内の集会所で毎月練習しているが、参加者は年々減っている。

小西さんは続けた。

「こっち(本巣市)の小学校に『踊りを広げてくれ』言うても、ここにはここの踊りがあって難しい、って。徳山踊りの歌も踊りも知らん若い子が増えてる。歌い手はもう3人しかおらん。このままいけば、踊りの会はパンクやな」

月に1度の「徳山踊りの会」。本巣市の団地集会所で(撮影:笹島康仁)

今も各地にダム計画

巨大ダムの多くは、徳山ダムと同じように高度経済成長期に計画された。時代が移り、周りの環境や社会状況が変わっても、計画はなかなか消えない。

例えば、群馬県の八ツ場(やんば)ダム。1952年に計画され、民主党政権時代に一度は建設中止に向かおうとしたが、住民らの反対で事業は続き、来年度に完成する。総事業費は計画当初の2110億円から5320億円へ、2倍以上に膨らんだ。

本体工事が始まった時の八ツ場ダム建設現場=2015年1月(写真:毎日新聞社/アフロ)

国土交通省によれば、同省が所管するダム建設事業は計画中も含め全国に68ある。このうち、中止が決まっているのは丹生ダム(滋賀県)だけだという。

徳山ダムの総事業費も結局、3500億円に及んだ。当初見込みより約1千億円も多い。時代が変わり、高度経済成長が終わった後も事業が続いたことに対し、疑問の声は消えなかった。

徳山会館横の石碑「ふるさと」。ダムによって沈んだ土地は少なくない(撮影:笹島康仁)

“カメラばあちゃん”の10万枚

消えゆく故郷の記憶は、誰がどうやって継ぐのだろうか。

徳山村には、2006年に88歳で逝去した「カメラばあちゃん」がいた。故・増山たづ子さん。カメラを始めたのは1977年にダム計画が本格化した後で、亡くなるまでに約10万枚もの写真を撮った。

昨年秋、揖斐川歴史民俗資料館で開かれた増山たづ子さんの写真展(野部博子さん提供)

出征した夫は、インパール作戦で行方不明になったという。70年代は旧日本兵の故・横井庄一さんや故・小野田寛郎さんが相次いで戦地から帰還した。生前の増山さんは「もしかしたら夫が帰って来るかもしれない。ふるさとは沈んでしまうから、夫が戻ったときに見せたい」と語っていたそうだ。

増山さんはダム建設に反対はしながらも、こんな言葉を残している。

〈国のやることには勝てんからな、戦争もダムも、大川に蟻が逆らうようなことをしとってもしようがないで。そんなバカげたことをするよりも、本当に村がのうなってまうかもわからんから、そうならんうちに少しでもな、いろんなことを残しておこうと思うようになったんだな〉

徳山会館に保管されている増山さんの写真パネル。人々の表情が印象的だ(撮影:笹島康仁)

写真の中に「ふるさとを引っ越し」

岐阜県神戸町に住む大学講師の野部博子さんは徳山村で民話を収集中、増山さんと懇意になった。今では写真の管理を任され、各地で写真展を開いている。

「たづ子さんは、村を写真の中に引っ越しさせたんですね。子育てや仕事で忙しい時は気にも留めないけれど、ふとした時、人は自分のルーツを知りたがるものです。『私は何なのか』という根の部分がないと、宙に浮いた人間になってしまいますから」

でも、ルーツたる徳山村はもう存在しない。

増山さんと親しかった野部博子さん(撮影:笹島康仁)

「これからの人たちには、新しい土地が『ふるさと』です。たづ子さんは『子どもたちに残さなきゃいけない、湖の底にも生活があったって教えなきゃいけない』という使命感で写真を残しました。それをどう料理するかは、残された人たちの仕事です。徳山と(原発事故のあった)福島は同じではないけれど、ふるさとを喜んで離れる人なんていない。その意味では同じです。大事なのは記録を残すこと、語り部をつくることです」

――記録が大事なのでしょうか?

「たづ子さんは、徳山を『心のふるさと』と呼んでいました。ふるさとを持つことは、心の支えになる。『そんな考えは古臭い』と思う人がいるかもしれませんが、自分のルーツを否定することは、自分自身の命を否定することでもある。日本中、あちこちに徳山のような暮らしがあり、その暮らしが巡り巡って、今の自分の命につながっているわけですから」

晩秋の徳山ダム。「水の底でもふるさとはふるさと」と野部さんは言う(撮影:笹島康仁)

ダム湖の名は「466湖」

旧村民の藤野末広さん(64)も徳山の写真を撮り続けた。その数、約1万6千枚。大きなファイル3冊分にもなる。

現在は「徳山湖」と呼ばれるダム湖の名前が公募されていた時、藤野さんは「466湖」にしたかったという。

「全国にいくつダムがあるか分からんけど、その底に何人もの生活があった。そう考える人は少ないでしょう? 徳山には466戸の家があった。暮らしがあった。ダムに来る人は『大きいねえ、きれいだねえ』と帰っていくけど、その下に466戸の生活があったことを忘れないで、って」

徳山の写真を撮り続けている藤野さん(撮影:笹島康仁)

その藤野さんの元に昨年、本巣市に住む小学校5年生の江崎嘉音さん(11)がやってきた。曽祖父母に故郷・徳山の話を聞かされていたという。

江崎さんはこう話す。

「大ばあちゃんが(私を徳山に)連れてってあげたかったって。(村は)みんな仲良しで、愉快だったって。徳山がなくなってほしくないって思いもよく分かって、感動しました。私はダムしか見たことないから、(実際の村にも)行ってみたかった」

訪問時の様子を藤野さんに尋ねると、うれしそうにこう言った。

「今までそんな子いなかったから。ふるさとが沈んでほしいなんて人間はいないよ。沈まないでくれってみんな思ってたんだ」

江崎嘉音さん。夏休みに徳山村やダムについてまとめた(撮影:笹島康仁)

藤野さんの記録集。「ダムにしずむなんてとても残念です」の写真。ダムに沈む前の学校の黒板に書かれていたという(撮影:笹島康仁)

[写真]
撮影:笹島康仁
提供:アフロ、野部博子

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