益田美樹

家族と暮らせなかった子どもたち 「家族」を語る

8/24(木) 9:55 配信

乳児院や児童養護施設で育った子どもたちは家族と一緒に過ごした経験がほとんどない。そんな「社会的養護」の下で育った子どもたちは、「家族」にどんなまなざしを向けているのだろうか。そうした子どもたちの手記を集めた『しあわせな明日を信じて』と題する本がある。つづられた子どもたちの本音は、複雑で、切ない。「施設とその後、そして家族」に関する胸の内を聞かせてもらおうと、本に関わった人たちを訪ねた。(益田美樹/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「母から隠れた」 人生最初の記憶

神奈川県内の飲食店で働く田代幸平さん(23)は、「これが好き」というデニムのジャケット姿で現れた。小田急線の海老名駅前。田代さんが住むエリアで最もにぎやかな場所だ。

田代幸平さん。神奈川県海老名市で(撮影:益田美樹)

生まれた病院から直接、乳児院に入所し、2歳で岐阜県の児童養護施設・大野慈童園に移された。父親は不明で、母親も体調や経済的な問題から養育が困難だったからだ。20歳まで施設で育ち、親と暮らした経験はない。

「3、4歳だったと思います。母親が面会に来てくれた時、一緒にいた職員の背後に思わず隠れました」

人生の記憶は、母親から逃げるこのシーンから始まっているという。施設に悪い思い出はなく、生い立ちを隠すことはない。それでも「家庭生活を経験していないことを実感する瞬間」はある。例えば……。

就職して一人暮らしを始めた直後の2013年冬。帰宅して、蛍光灯と暖房のスイッチを入れ、家事をこなしていると、一瞬にして部屋が暗くなり、電化製品も止まった。携帯電話でとっさに助けを求めた先は、施設の担当職員だった鎌田ゆかりさん(60)だ。田代さんは今も彼女を「ゆかりねえ」と呼ぶ。

大野慈童園の元職員、鎌田ゆかりさん(撮影:益田美樹)

電話の向こうで、ゆかりねえの声が聞こえる。

「窓の外を見て。ほかの家に明かりはついてる? ついていたら停電じゃない。ブレーカーが落ちたのよ。まず、コンセントを全部抜きなさい。それから……」

その電話で田代さんは初めて「ブレーカー」という言葉を知った。一般家庭で暮らしていたら、親から教わっていたであろう知識。それが抜け落ちていた。

子どもたちの手記 既に第3集

『しあわせな明日を信じて』はNPO法人「こどもサポートネットあいち」(名古屋市)が制作し、第1集は2008年に出た。その後は4年ごとに編集され、これまでに3集が世に出ている。

『しあわせな明日を信じて』。これまでに3集を刊行(撮影:益田美樹)

執筆は、乳児院や児童養護施設の子ども、巣立った人、そして担当職員たち。「子どもたちのその後を追う」狙いがあり、3回とも寄稿メンバーは固定されている。第1集に登場した子どもは田代さんを含め23人。プライバシーへの配慮からペンネームで登場する。

中学2年生だった田代さんはこう書いた。

「ぼくは親のことはあまり知りません……お父さんのことは職員も『わからない』と言い、ぼくも知りません。お母さんにお父さんのことを聞いたことはありませんが、なんか聞きにくいし、あまり気になりません」

大野慈童園(撮影:益田美樹)

他の多くの施設と同様、大野慈童園でもクリスマスや子どもの日には「思い出ができるように」とパーティーなどを開いてきた。田代さんはそれも文字にせず、逆にこう記している。「施設での思い出は特にありません。毎年、特に変わったこともないです。施設にいることで困ったりすることも特にないです」

全国4万人超 「社会的養護」の子ども

厚生労働省によると、「保護者のない児童、被虐待児など家庭環境上養護を必要とする児童などに対し、公的な責任として社会的に養護を行う」ことを社会的養護という。同省がこの7月に公開した資料では、対象は約4万5000人。全国603カ所の児童養護施設と136カ所の乳児院に、計約3万人が暮らす。田代さんもそうした1人だった。

彼は高校2年生だった2012年、第2集でこう書いている。

田代さんは今、神奈川県内で働く(撮影:益田美樹)

「僕はお母さんと二人きりで話をしたりするのがあまり好きではなく、まずなにを話したらいいのか、理解し合える話があるのかさえもよく分かりません……(母は)僕たち兄弟のことを考えたり世話したりする余裕がなかったのだと思います。僕自身のお母さんに対する感情もあまりありません」

2016年に21歳で書いた第3集からは、家族の記述が消えた。

「ケース記録」で幼少期を知る

田代さんには昨年、大野慈童園で自分の「ケース記録」を読む機会があった。ケース記録とは、担当する子ども一人ひとりについて、職員が作成した日々の記録だ。自分のものは、厚さ4、5センチのノート2冊分だったという。

小学校低学年からさかのぼり、聞かされていなかった過去を読み進む。家族のことが詳しく記されていた。

大野慈童園の行事や園内の様子(写真:同園のHPから)

記録を読んで、どう思ったのだろう。

「幼いころから母親を好きになれなかったのは、関わる時間が少なかったからだ、と思いました。大舎(20人以上の寮舎)で育ったので家族のイメージは湧かないんですが、ケース記録で(自分や家族のことを)知って良かった。自分もいつか……、いつかは家族を持ちたいですね」

「施設職員はその子をずっと見守る」

この作文集は「こどもサポートネットあいち」の理事長、長谷川眞人さん(74)のアイデアで生まれた。長谷川さんは20年以上、児童養護施設で働き、担当した子ども34人の「その後」を30年にわたって追跡。20年の節目には子どもたちと集まりも開いた。

長谷川眞人さん(撮影:益田美樹)

「施設の職員は、その子の人生をずっと見守ることができます。それが、この仕事のやりがい。作文集は子どもたちの記録ですが、職員にも、作文集をきっかけに卒園後の子どもに会うようにしてもらいたい、やりがいを感じてもらいたい、と。そんなことも考えて作りました」

「社会的養護の子は、実の家族に代わって社会が養育する子どもたちです。だから彼らや職員について、社会のみんなに知ってほしい。誰でも施設のお世話になる可能性はあるわけですから」

「仕事というより、生活そのもの」

作文集を実現させた当時、長谷川さんは日本福祉大学社会福祉学部の教授でもあり、第1集の制作には学生も加わっている。ほかの制作メンバーも多彩だ。その1人、中村國之さん(73)は岐阜県内の乳児院で施設長を務めるなど、人生の大半を社会的養護の子どもと共に過ごしてきた。

中村さんによると、かつての職員は住み込みが当たり前で、「24時間、365日、子どもや同僚と一緒でした」と言う。

中村國之さん(撮影:益田美樹)

「仕事というより、生活そのもの。自分の子どもに『うちには家族だけの写真がない』と言われたこともありますが、『みんな家族じゃないか、一緒に住んでるんだから』と。いろんな家族があっていいでしょう? 血がつながってなくても、その人が家族と思えば家族じゃないですか」

担当した子どもが「旅館の板前になった」と聞き、その旅館を訪ねたことがある。中村さんはそこで「まあ、おやじみたいなもんです」と紹介された。そういう関係になった子どももたくさんいる。

愛さんの場合 「自分は自分の力で」

ペンネーム・田中愛さん(26)のケースも紹介しよう。小学校入学前、薬物を使用していた父の元へ母に連れて行かれ、置き去りにされたことがある。小学校から不登校。愛知県内の児童養護施設に入ったのは中学3年生の時で、母親が家を出てしまったことがきっかけだったという。

田中愛さんが暮らしていた児童養護施設(撮影:益田美樹)

第1集に手記を寄せたのは入所して間もなく、高校1年生の時だった。16歳の彼女はこう決意している。

「親がどうしようも無いとかそんなの関係なく自分は自分の力でここまできたんだって、10年後でも20年後でも思える時が来るようにしたいです」

あれからほぼ10年。この夏、待ち合わせ場所に指定された卒園施設で待っていると、愛さんはマイカーでさっそうと現れた。ボーダーのTシャツ姿。笑顔を絶やさず、慣れた手つきで名刺を差し出す。保険会社の営業担当として忙しい日々を過ごしているという。

施設の職員(奥)と談笑する愛さん(撮影:益田美樹)

卒園した今も2、3週間に1度はここに足を運ぶ。「いつも相談に乗ってくれた犬のヒメちゃんに会うためですよ」と屈託がない。入所当初は約50人の子どもたちとの共同生活が苦痛で、安心して一緒に過ごせる人は数えるほどだった。自傷行為と無縁でない時期もあった。それでも、職員に見守られながら高校、短大へと進学した。

「ここでは園長先生にギターも習ったし。私の帰る場所ですね」

ギターは園長先生に習ったという(撮影:益田美樹)

「母には今もむかつく。けど…」

愛さんは作文集で「家族」についてつづっている。

「施設に入所する前は、父、母、兄、私、妹の5人家族で5階建てのマンションに住んでいました……今、考えると家族といえるのか分かりません。父は、私が4年生の時に母が再婚した歳の若い人です。どちらかというと兄といった方がいいと思える人です。それに私はあの人のことを父親なんて思ったことは一度もないです。今では母についても親とは思っていません」(第1集、高1)

「母親とは、連絡を取らないようにしています。私の中でまだ母のことを整理ができていないことが大きな理由です。母親のことを考えると、やっぱりむかついたりしますが、私は私の人生を歩んでいきたいと思います」(第2集、19歳)

施設で飼われている犬の「ヒメちゃん」。愛さんの話し相手だった(撮影:益田美樹)

社会に出て働くようになったせいか、母親に対する気持ちも少し変わってきた、と愛さんは言う。「一生懸命に私に向き合ってくれていた。あの人にとっては、一生懸命だったんだと思います」

一方では、「むかつく」という気持ちも完全に消えない。西日本に住む母親とは、ごくたまに会う。

「子どもの頃だったら親の存在は大きいし、近い間柄になるのがいい。でも、今更という感じもするし、普通の親のように接してくる母の態度に反発を感じます。娘なのにそう思ってしまう自分も嫌。今後どう接していけばいいのか、正直わかりません」

家族について語る愛さん(撮影:益田美樹)

橘さんは「生きる力を施設でもらった」

橘渚(たちばな・なぎさ)というペンネームで作文集に寄稿した女性(28)にも会った。6歳から18歳まで愛知県内の児童養護施設で暮らし、夜の仕事を経て今はパチンコ店で働いている。

「施設では、いじめもあってつらかったけど、その分強くなれたと思う。誰でもいずれ、社会に出ていかなきゃいけない。生きていくために戦わなきゃいけない。その準備という点で、施設は良かったと思います」

橘さんは、家族にあこがれながら施設で育ったという。実際、高校3年生で書いた第1集には、母親を慕う気持ちが満ちている。

橘渚さんは6歳から施設で暮らした(撮影:益田美樹)

「母と話しているうちに、今まで私は母のことを誤解していたことに気がつきました。母は私たちの父と離婚した後、とても苦労してきたこと、そして施設に入ることでしか、私たちは生きてこられなかったことなど、私が知りたかったことを話してくれました。母は私たちきょうだい4人をちゃんと愛してくれていたんだ、そばにいて与えるだけが愛情ではないんだと知りました」

施設の12年間は本当につらかったけれど、施設にいなかったら家族の大切さも分からなかった、と作文は続く。

「家族と過ごせなかったのは辛かったけど、その分、今まで家族で過ごしてきた人たちよりも家族の大切さや絆は強いものになったと思います。家族は私の自慢です。この家族に生まれて幸せです。この家族でよかった」

4年ごとに出版された作文集。変化していく子どもたちの気持ちが記されている(撮影:益田美樹)

21歳の第2集では、心境が変化した。

卒園後、家族と一緒に住み始めたが、長く施設で暮らしたため、日常的な家族との接し方が分からない。「思い描いていた家族とは違いました」と書き、家を出たいと繰り返す。好きな男性との暮らしを夢見て、「自分だけの家族が欲しい」と切望してもいた。いま、その夢はかなっていない。

第1集で「この家族で良かった」と書き記したのは、こうありたい、という理想だったのでしょう、と担当職員は考えている。社会に出て働き、母親や新しい父親らと暮らす中で現実を知り、夢を語れなくなったのだろう、と。

取材に応える橘さん(撮影:益田美樹)

橘さんは取材中、「将来の夢は特に思い浮かばない」と口にした。仕事も結婚も自然の成り行きでいい、と。「結局、自分1人で生きていくしかない。でも戦う武器(強さ)は持っている。施設で暮らしたおかげです」

見守ってくれる人がいたら…

制作側として当初から作文集に関わっている蛯沢光(えびさわ・あきら)さん(30)も「社会的養護の子ども」である。7歳から児童養護施設で暮らし、高校卒業までそこにいた。今は小規模保育事業所を運営するNPO法人の事務局長などを兼任する。

蛯沢さんは、多くの乳幼児と接する中で「5歳までは母親と過ごす時間がとても大事。それがないと、子どもの心に安全基地ができないと心底思うようになりました」と話す。

作文集の編集に携わる蛯沢光さん。自身も施設で育った(撮影:益田美樹)

しかし、家族がいれば、それだけでいいというわけでもない。蛯沢さんはそれも実感している。

「お父さん、お母さんがそろっていても、不適切な育児がなされる場合はあるわけです。施設や保育所などにも限界がある。それぞれがフォローし合っていく、それが大切。要するに、人がちゃんと成長するには、その子をきちんと見守ってくれる人がいるかどうかなんだ、と。そう思います」


益田美樹
ジャーナリスト。元読売新聞記者。
英国カーディフ大学大学院(ジャーナリズム・スタディーズ専攻)で修士号。

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