ロンドン五輪金メダリストからプロボクサーに転向した村田諒太がついに世界挑戦を迎える。名門・帝拳ジムに所属し、世界的なプロモーターのボブ・アラムと契約を結ぶ彼は2013年8月にプロデビューを果たして以来、12勝(9KO)無敗と順調に勝ち星を重ねてきた。そして5月20日、東京・有明コロシアムで空位のWBA世界ミドル級正規王座を懸けてランキング1位アッサン・エンダムと、拳を交えることが正式に決定した。
だが、ミドル級(72.575㎏リミット)は「超難関」として知られている。欧米の実力者が集い、ヘビー級、ライト級に続いて歴史が古く、人気階級ゆえに競技人口も多い。「最も熱く、最も層が厚い」階級であると言われてきた。いわばミドル級の歴史が、ボクシングの歴史そのものを彩ってきた。"拳聖"と呼ばれ、5度も王座に就いたシュガー・レイ・ロビンソン、統一王者のまま引退したカルロス・モンソン......80年代にはマービン・ハグラーらがしのぎを削る「黄金のミドル」全盛期が訪れた。時は流れ、現在は3団体統一王者(WBAスーパー、WBC、IBF)ゲンナディ・ゴロフキンの一強時代が続いている。
勝てば竹原慎二に続く2人目の日本人ミドル級世界王者となり、日本人初の金メダリスト王者となる。勝負の一戦に臨む31歳、村田の今に迫った――。(スポーツライター・二宮寿朗/Yahoo!ニュース 特集編集部)
自己対話と自己受容を繰り返す
村田諒太は、闘う哲学者である。
心理学者アルフレッド・アドラー、ヴィクトール・フランクルなど心理学、哲学の書を好む。「本を読め」が口癖の父親の影響が大きいという。自分の心に問い掛け、常に客観的に己を眺める自分がいる。
「最近は自己肯定、自己受容というものを考えています。自己否定に入って俺はダメなんだって迷い始めると自信も湧いてきませんから」
コーヒーの入った紙コップの横に置いていた紙ナプキンをおもむろに広げてから、彼は無造作に折り始めた。
「『丸くなるな、星になれ。』っていうビールのCMのコピーがあるじゃないですか。この紙、見てください。こうやっていびつな形で尖っているところがあれば、それが"武器"になっていくと思うんです。紙の大きさが決まっているなかで、元の形に戻しても仕方がない。"武器"を磨いて、いびつな形をつくってそこで勝負しなきゃいけない」
自己受容の先、仕上げになるのが自己対話だ。
「試合の1週間前とか、怖くなるときがあるんですよ。そして自分自身と会話をしていくんです」
<俺、負けたらどうしよう?>
≪結果なんてやってみないと分からないだろ? じゃあ聞くけど、オマエのいいところって何だよ≫
<いいところ? ガードが固くて、ハートが強くて、プレッシャーを掛けられて、パンチがあるところ>
≪それで勝負しなくてどうするんだよ。ほかのことやったって勝てないぞ≫
<そうだよな>
不安を振り切れば、目の前の相手を倒すだけ。自己受容と自己対話によって、尖っている武器は最大限に発揮されることになる。
臆することなくガードを固めて圧力を掛けて前進。最も尖っている「武器」右ストレートを打ち込む。自己受容が生んだ"村田スタイル"で2016年は4戦4KO勝ちを収めている。1月のガストン・アレハンドロ・ベガ戦で2回KO勝ちしたことを皮切りに、4回TKO(5月、フェリペ・サントス・ペドロソ戦)、1回TKO(7月、ジョージ・タドニッパ戦)、3回KO(12月、ブルーノ・サンドバル)。いずれも序盤KOで「充実の1年」を過ごし、王座決定戦の切符を手繰り寄せたのだった。
「ボクシング人生で最低の試合」
ターニングポイントは"充実の2016年"を迎える前にあった。
2015年11月、ラスベガスデビューとなったガナー・ジャクソン戦は3−0判定勝ちながら「自分のボクシング人生で最低の試合」だと吐き捨てた。自分の持ち味を出せずに本場のボクシングファンを沸かせる場面もなかった。自分のボクシングというものをあらためて見直すきっかけになった。
次の試合に向けた準備段階で、帝拳ジムの本田明彦会長に「右足の踏ん張りが利いていない」と指摘された。右構えの場合、左足を前に出し、右足を軸足とする。右足を意識して自分では「踏ん張っているつもり」なのに、なぜ会長の目にそう映っているのかを考えていたそのとき、ハッと気づかされた。
「右足で踏ん張ろうとしているから余計に右に重心が残って(ひざが)折れたような状態になる。ひょっとしたら、これは右足の問題じゃないなって思ったんです。右足じゃなく、逆に左足に重心を乗せるようにすると折れなくて済む。そうすることで右足の踏ん張りが利くようになるんだ、と」
過去の試合の映像を見てみれば、右足に重心を掛けるあまり、腰の左側が高くなっていた。踏ん張りが利かない原因を断定することができた。腰を水平にしつつ、左足に重心を乗せる修正作業に入っていった。
「相手が来たときに左足に体重を乗せた状態でガーンとパンチを打てるようになって、スパーリングでも倒せるようになったんです」
だが、あまりに意識しすぎてしまえば今度は逆に崩れてしまうから難しい。
「左足に体重を乗せようと頭で覚えると、今度は左足に乗せすぎになってしまう。頭じゃなく、感覚で覚えなきゃいけない」
言うは易く、行うは難し。
試行錯誤を繰り返しながら、村田は感覚をつかむためにあるトレーニングを取り入れた。
それが野球のピッチングである。シャドーではなく、実際にボールを投げ込む。公園に出向いて、ネットへ投げ込むことを日課とした。肩を柔らかくするためにジムメートのホルヘ・リナレス(WBA世界ライト級、WBC同級ダイヤモンド統一王者)に勧められてやってはいたが、別の目的を加えられると踏んだ。
「ワイルドな天才」ではなく「クレバーな努力家」
「ボクシングの動き自体は小さいけど、ピッチングはダイナミック。だから体のクセが凄く出やすいんです。変なクセが出ていないか、重心の位置がどうなっているかを確認するためにやっているんです。頭じゃなくて、感覚をピッチングでつかむことができる。天才の人なら考えなくていいんですけど、僕はそうじゃない。いろいろと考えていかないといけないんです」
ひと呼吸置いて、彼は言葉を続けた。
「ダメなときこそ伸びるチャンス。いいときに変わる必要はないんです。ダメなときに自分がどう変わっていけるかじゃないでしょうか」
自分の心と向き合い、あらゆる角度から自分を眺め、考え、自分を高めていく――。
ワイルドで天才肌と見られがちだが、クレバーで努力家。それが村田諒太の実像である。
デビューから3年8カ月、ついに世界挑戦が実現する。
今年3月、統一王者ゴロフキンがWBA正規王者ダニエル・ジェイコブスを僅差ながら3−0判定勝ちで退け、空位となったジェイコブスの王座を1位エンダムと2位村田が争うことになった。
エンダムはカメルーン出身、フランス国籍の33歳で元WBO王者。強打とスピード、そして無類のタフネスを誇り、今なおミドル級でトップを張る一人である。強い相手だと認めているからこそ、楽しみで仕方がない。
「もし僕が海外のマッチメーカーであれば、エンダムと戦うことは勧めないですね。パンチがあって、何回倒れても起き上がってくる。足も止まらない。本当に嫌な相手です。でもこのエンダムに勝ったら"俺は世界チャンピオンだ"と胸を張って言っていいなと思っています」
デビューしてからここまで順調に勝利を重ねながらも、調子の波に悩む時期もあった。
「精神的にも落ち着いてきて一番いい時期」にチャンスが巡ってくるあたりも、村田が持つ天運なのかもしれない。
世界王者になることは、彼にとって通過点でしかない。
メイウェザーを見つめる村田の眼差し
あれは3年前のことだった。
プロ4戦目に向けたラスベガス合宿を筆者が取材した際、彼は年収1億ドルの"世界で最も稼ぐスポーツ選手"フロイド・メイウェザーの試合を現地ラスベガス、MGMグランドで観戦していた。ラスベガスで試合を見るのは初めてだと、彼は言った。自他ともに認めるボクシングマニアならばこの舞台に心を躍らせるものだが、睨みつけるようにしてリング上の戦いを見つめていたのが印象的だった。
メイウェザーも、ラスベガスも村田にとっては憧れの対象などではなかった。いつか現実にここに立つ。"聖地"の雰囲気を楽しむつもりなどさらさらなく、すべてを刺激の対象としていた。
人生から問い掛けられ、こたえていくのが人生
WBA正規王者となれば、ラスベガスが放っておくわけがない。ゴロフキンを含めトップオブトップのビッグマッチに出ていくことになる。観客席からメイウェザーの試合を見たあの光景が、現実になるのだ。しかしエンダムに勝たなければ水泡に帰す。村田の言葉を借りれば「勝てばオープニング、負ければエンディング」になる。
彼自身、ヴィクトール・フランクルの言葉で心に残っているものがある。
「人間は、人生に意味を求める必要はないということ。人生から問い掛けられ、こたえていくのが人生」
闘う哲学者は、世界王者になる意味を求めてはいない。
世界王者になるチャンスが目の前にあり、その問い掛けに全身全霊でこたえていくのみ。機は熟した――。
村田諒太(むらた・りょうた)
1986年、奈良県出身。中学時代にボクシングを始め、南京都高に進学。5冠を達成する。東洋大学に進み、大学1年時の2004年に全日本選手権で初優勝する。2008年1月、北京オリンピックに出場できず、現役引退を決断。東洋大の職員として復帰後、2011年11月に世界選手権で銀メダルを獲得。決勝に日本人が進んだのは初めて。翌年のロンドン五輪では金メダルを獲得する(日本人は1964年東京五輪、桜井孝雄に続いて2人目)。2013年にプロ転向し、12勝(9KO)無敗。帝拳ジム所属、WBA世界ミドル級2位。
二宮寿朗(にのみや・としお)
1972年、愛媛県出身。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、2006年に退社。文藝春秋社「Sports Graphic Number」編集部を経て独立。著書には「岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント」(ベスト新書)、「闘争人~松田直樹物語」「松田直樹を忘れない。~闘争人Ⅱ永遠の章」(ともに三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブルーの原材料」報知新聞にて「週刊文蹴」を連載中。「Yahoo!ニュース エキスパート」オーサー。