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笹島康仁

「自分はビキニで被ばくしたのか」海の男だった82歳が執念の調査 国がやらないなら自分で

2019/02/19(火) 07:14 配信

オリジナル

自分は被ばくしたのか。被ばくしたとしたら、それはどの程度で、健康にどう影響するのか。それになにより、ほかでもない自分に関する事実がなぜ分からないのか――。60年余り前、マグロ漁船「ひめ丸」に乗っていた高知市の元船員はいま、そんな思いの中にいる。かつて米国は太平洋で核実験を繰り返し、周辺で操業中だった「ひめ丸」など1000隻近い日本漁船に影響を与えた。その事実は近年少しずつ明らかになり、国を被告とした裁判でも被ばくが認定された。それでも物事は一直線に進まない。厚生労働省が実施した被ばく線量調査では、研究代表者が自ら「2〜3倍の誤差」があると認め、元船員からは「線量が過小評価されていたのでは」と疑う声も出た。いったい、事実はどこにあるのか。82歳になった元船員、増本和馬さんは執念の調査を続けている。(文・写真:笹島康仁/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「食べるため」の仕事で被ばく

この1月22日、増本さんは高松高裁にいた。自らも原告の裁判の控訴審。その初回の口頭弁論があったからだ。一審の高知地裁よりも建物には貫禄があり、法廷も少しだけ大きい。多くの取材陣が詰め掛け、傍聴席も支援者で埋まった。「気持ちがね、ちょっと引き締まった」と振り返る。

2016年に一審が始まった時、増本さんは「まさか自分が法廷に立つとは」と話していた。解明すべきは、62年前の核実験と自身の被ばく。しかも、訴訟相手は「国」。核実験の実行者は米国だ。

増本和馬さん。船乗りとして世界中を旅してきた

増本さんは日本統治下の朝鮮半島で生まれ、敗戦で高知県の漁師町に引き揚げた。家計を助けるために17歳でマグロ漁船に乗り、その最初が「ひめ丸」だった。

「当時のマグロ漁船は厳しかったよ。命を落とした人もおる。けがをしても『グリス(工業用の潤滑剤)でも塗っとけ』と。船員は消耗品のように使われた時代です。それでも、たくさんの人が集まった。15歳から乗った人もおる。何のために? 食べていくために、家庭を助けるために、です」

結婚を機に商船に移った。病気は多く経験したが、「普通」に生きてきたという。

増本さんがマグロ漁船に乗っていたころ、米国は太平洋で核実験を繰り返していた。そのうちの一つ、1954年3月1日にビキニ環礁で実施された水爆実験では、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくする。

ビキニ環礁で実施された核実験=1956年7月(Science Photo Library/アフロ)

このときの水爆の威力は、広島型原爆の約1000倍。粉塵は160キロ東で操業していた福竜丸にも降り注いで船員を被ばくさせ、無線長の久保山愛吉さんは半年後に死亡した。一連の実験により、54年末までに延べ992隻が汚染された魚を日本で水揚げし、「放射能マグロ」の言葉とともに日本中に衝撃を与えた。

ところが、日本政府は55年1月、「完全解決」の合意文書を米国政府と交わす。米国側は「見舞金」200万ドルを支払い、日本側は賠償請求の権利を放棄する、という内容だ。米国はその後も核実験を続けたが、漁港での検査は行われなくなった。

2014年3月、記憶を呼び起こされる

増本さんが再び「ビキニ」に引き戻されたのは5年前、2014年3月だった。当時の核実験に関する新聞記事が地元紙に掲載されたことがきっかけだった。

「せっかく取ったマグロを検査され、海に捨てた」「(太平洋で操業中)夜なのに突然、昼間のような明るさになった」「灰のようなものが降ってきた」……。元漁船員らのそんな証言も多数載っている。

1954年の核実験では多くの漁船が汚染された魚を水揚げした。実験場周辺は多くのマグロが取れるいい漁場だったという

それを読んで、増本さんは当時の出来事をよみがえらせたという。マグロ漁船に乗っていた時代から既に60年が過ぎていた。その後は「普通の人生」を歩んできたが、自分の記憶と重なる証言も多かったからだ。

あのころ、漁を終えて東京・築地に入ると、ガイガーカウンターを持った係官が魚を調べていた。多くの病気を経験し、今から20年ほど前には「白血球が異常に多い」と診断されていた。医師の見解は「原因不明」。前立腺がんも患った。若くして死んだ仲間も少なくない。

元船員や遺族らは2016年、国を相手取り、「第五福竜丸以外の漁船に関して日本政府は必要な健康調査や情報公開を怠ってきた」ことを問う国家賠償請求訴訟を起こした。その提訴の前、増本さんは「ひめ丸の調査を手伝ってほしい」と弁護士に頼まれ、それをきっかけに自ら調査に関わっていく。

増本さんは毎回出廷し、原告席に座った。手元には必ずペンとメモ用紙。遠くなった耳で、裁判官の言葉を必死に聞き取った。法廷でのやりとりが聞こえず、悔しい思いをしたこともあった。「裁判官に失礼があっちゃいけない」と言い、真夏の高知の裁判でもスーツとネクタイを欠かしたことがない。

国を相手取った訴訟の原告や支援者ら。前列中央が増本さん。裁判ではスーツとネクタイを欠かさない

同じ「ひめ丸」に乗っていた仲間の調査も続けた。それぞれの経歴や病歴を調べ、遺族らから当時の様子などを聞き取っていく。「(核実験の)光を見た」と言う船長に会うこともできた。町内には別の漁船に乗り、20代で死んだ船員がいたことも分かった。その兄は「最期は全身の穴から血が出ていた」と語ったという。それらは妻の美保さん(78)が丁寧に整理し、ファイルは少しずつ厚みを増している。

高知地裁は昨年7月の一審判決で、元船員らに関する被ばくの事実を認定した。賠償請求は認めず、原告敗訴となったものの、被ばく直後の健康調査が不十分だったこと、病気と被ばくの因果関係を立証するのは難しいことなどに言及。そして、元漁船員らの救済については「改めて検討されるべき」とした。

厚労省研究班の「調査」とは

ビキニの問題が再燃していた2015年、当時の漁船員らの被ばくの程度を調査するとして、厚労省は研究班を立ち上げた。研究代表者は「放射線医学総合研究所」の明石真言理事。この「放医研」は16年4月に改組して、国立研究開発法人「量子科学技術研究開発機構 放射線医学総合研究所」となり、明石氏は現在、同機構執行役だ。放射線被ばくの専門家で、東京電力福島第一原発の事故に伴う福島県の「県民健康調査」でも委員を務めている。

この研究班ができた時、元船員らは「ようやく国が自分たちの声に直接耳を傾けてくれる」と期待したという。ところが、2016年5月に「報告書」をまとめるまで研究班は、被ばくの健康被害を訴えて原告となった元船員を一人も訪ねていない。

研究班代表だった明石真言氏。この写真は、東京電力福島第一原発事故の後、記者会見で作業員の状態を説明する様子。当時は、緊急被ばく医療研究センター長だった=2011年3月25日(読売新聞/アフロ)

この研究班は何をやっていたのだろうか。その一端を知ろうと、同研究所に情報公開請求をしたところ、2016年4月までの1年2カ月に及ぶ領収書が開示された。

その間に支出された経費は約500万円で、人件費に約190万円。さらに書籍(約10万円)、研究班メンバーが千葉市の同機構に集まるための交通費(約33万円)。外部委託費として約180万円が使われていた。研究班とは別の「ビキニ環礁水爆実験による元被害者の被ばく線量に係る研究」の経費では、ノートパソコン2台(42万円と25万円)、PDFや文書のソフト(20万円)、トナー(6万円)、シュレッダー(8万円)などが購入されている。

これらの支出内容を増本さんに伝えると、「研究について詳しいことは分からないけれど……」と言い、続けた。

「一度は自分の元に来てほしかった。(自分から)行ってもよかった。自分の体験、聞き取ってきた仲間の話を伝えたかった。第五福竜丸が被ばくしたことは多くの人が知っている。けれど、同じような場所で操業していた船が何隻もいるのに(長年にわたって国は)何も調査してこなかった。あんまりではないでしょうか」

裁判所を後にする増本さん

研究班の「報告書」は、どんな内容だったのか。

研究班は、1954年3〜5月に実施された一部の実験を対象に、米軍が設置したモニタリングポストの数値や、近くで操業していた10隻の航路などから外部被ばく線量を推計した。同年7〜8月に操業した「ひめ丸」は含まれていない。

結論は「漁船員の被ばく線量は最大でも1.12ミリシーベルト相当であり、健康に影響を及ぼすほどの被ばく線量があったと明確に示すことはできなかった」という趣旨である。

ところが、研究代表者の明石氏は16年、筆者の取材に「最大1.12ミリシーベルト」とした結果には「実際と2〜3倍の誤差がある」と明言し、「健康への影響はないということは変わらない」としつつも、報告書の結論は実態よりも過小評価になる可能性を認めた。

明石氏によれば、同じ方法で第五福竜丸を計算した場合、船員の被ばく線量は約1300ミリシーベルト。これに対し、実際に計測された船員の被ばく量は「最大約7000、平均約3000ミリシーベルト」だったという。実測値のほうがかなり高い。「(福竜丸の)数値は検討の余地がある」として報告書には記さなかったという。

当時の漁船員たちは汚染の強いマグロの内臓を食べたり、海水を日常的に使ったりしていた。「それに伴う内部被ばく、漁の実態が十分に考慮されていない」といった疑問も残っている。

「自分の被ばくは、もう自分で証明するしかない」

「自分の被ばくは、もう自分で証明するしかない」――。そう思った増本さんは、「ひめ丸」に乗ったほかの船員のことも調べ続けてきた。昨年には控訴と同時に、船員保険の労災認定を受けるための申請もした。

この1年間に、極めて重要な二つの診断書も手に入った。一つは、同じ「ひめ丸」に乗っていた男性の死亡診断書だ。この男性は1994年、66歳のときに白血病で亡くなっている。

「ひめ丸」の元船員の死亡診断書。増本さんによれば、後輩思いの優しい人だったという

増本さんは遺族の協力を得て、「急性単球性白血病」と記された死亡診断書を入手した。「死亡診断書」を第三者が入手することは難しい。社会保険事務所の窓口では、遺族の委任状に加えて「銀行の口座番号」も必要だとされた。何度も遺族の元を訪れ、承諾を得ることができたという。

放射線被ばくと病気の因果関係は証明が難しいが、この男性もかかった「白血病」は、労災認定において被ばくとの因果関係が比較的認められている病気だ。国が定めた放射線業務従事者の労災認定では、白血病の場合、年5ミリシーベルト以上の被ばくが基準の一つであり、原発労働者らが認定を受けている。

もう一つの診断書は、増本さん自身の病気についてのものだ。第五福竜丸の労災認定に関わっていた医師から「いくつかの病気について、被ばくとの因果関係が認められる」とする当時の診断書を得ることができた。これには、看護師だった妻・美保さんの協力が大きかったという。

「(現役時代に)取っておいた病院の文書が役に立ちました。そんなこともあるんですね。夫は病気をしながらでも元気でおるので、何か役に立たなきゃいかんということで頑張っています。いい結果が出るといいのですが……」

妻・美保さんの運転で裁判所へ向かう増本さん

外務省の開示文書からは、ひめ丸が実験場の周辺海域で操業していたことが分かった。米国の公文書は同船の操業海域にも放射性物質の降下があったことを示している。そして、増本さんが捨てずにいた船員手帳も、裏付けの一つとなった。

自分のこととはいえ、10代だった当時の、太平洋上での出来事を確定させていく作業は容易ではない。国との裁判や労災認定には「物証」が欠かせない。多くの船員がそこでつまずくなか、増本さんの元には、一つずつ、証拠が集まりつつある。

増本さんの船員手帳と、実験海域やひめ丸の操業位置を示した外務省の開示文書

「仲間の無念を晴らしたい」

82歳の増本さんはいま、時間とも闘っている。

今年1月に会うと、「この1年でまた病名が増えた」と嘆いていた。昨年末には救急車で運ばれ、生死の境をさまよった。自宅に戻れたのは12月31日だったという。

冒頭で紹介した訴訟の原告は、みんな高齢だ。提訴後に亡くなった人もいる。控訴審では、原告の数は45人から29人になった。原告には加わっていなくても、当時のマグロ漁船や核実験を知る人はどんどん減っている。増本さんも「あんまり長引かんで、片付いてほしい」と言う。

増本さんの病歴。1993年に白血球が異常に多くなった

増本さんは「なぜ自分たちがマグロ船に乗ったのかを知ってほしい」と言う。

「貧しいなか、必死に働きました。働いて、勉強して、働いて。それで税金を納め、国民の義務を果たしてきた。なのに、国は、義務を果たしていないのではないですか。国同士の話し合いで『解決』して、船員は踏みにじられてきたのではないですか。苦しんで、亡くなっていった船員がたくさんおるわけです。その無念を晴らしたいのです」

「仲間の無念を晴らしたい」と話す増本さん


笹島康仁(ささじま・やすひと)
記者。高知新聞記者を経て、2017年に独立。


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