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SL廃止から50年。当時の機関士が懐かしの両国発列車の思い出を語る。

鳥塚亮大井川鐵道代表取締役社長。前えちごトキめき鉄道社長
1969年8月20日 都内発最後のSL列車が両国駅から発車した。

今からちょうど50年前の今日、1969年(昭和44年)8月20日、都内最後のSL牽引旅客列車として両国発勝浦行221列車が発車しました。

当時は消えゆくSLを追って全国でSLブームが沸き起こり、両国駅にはたくさんのファンが集まり、このSL列車を見送りました。

まだ総武快速線や京葉線の東京駅地下ホームができる前で、都内から千葉より先へ行く列車の多くは両国駅の一段低くなったホームから発車していて、ちょうど今国技館や江戸東京博物館が建っているあたりが機関車の基地になっていました。

おとなりの錦糸町駅は快速電車の車庫があるところが低くなっていて、そこに貨物の駅や客車の基地がありましたので、両国、錦糸町は千葉方面からの列車や物資の集散地として大変賑わっていたことを思い出します。

当時は千葉以外でも八高線や川越線など都内近郊でまだまだSL列車が走っていましたが、ほとんどが貨物列車でした。ところが千葉方面への列車は旅客列車にもSLが使用されていて、実際に乗ることができるという点で貴重な列車でした。

1969年はその貴重な列車が次々とディーゼル機関車に置き換えられたり、廃止されていったりしましたので、さよなら列車が走る度にSLファンたちが集結して大きな賑わいになったことを、当時東京板橋の小学生だった筆者もはっきりと覚えています。

1969年(昭和44年)の都内近郊さよならSL列車

3月15日 上野発 成田行(上野→我孫子→成田) SL最終運転 825列車

7月10日 両国発 館山行(房総西線 現:内房線) SL最終運転 125列車

8月20日 両国発 勝浦行(房総東線 現:外房線) SL最終運転 221列車 都内発最終SL旅客列車

9月30日 千葉発 銚子行(総武本線) SL最終運転 325列車

50年前の今日8月20日の両国発勝浦行221列車の運転をもって、都内発のSL牽引旅客列車の歴史が終了したのです。

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▲両国駅で発車を待つ勝浦行221列車。

ホームにはたくさんのSLファンが詰めかけていました。

このニュースをお読みの方の中にも「この日に両国へ行った。」「この列車に乗った。」という人もいらっしゃるのではないでしょうか。

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▲さよなら列車発車前の式典の様子です。

担当乗務員が花束を受け取っています。

この日のSL乗務員は

柏木薫機関士

福辺吉彦機関助士

宇井栄太郎指導機関士

の3名が両国-蘇我間を担当、

蘇我ー勝浦間は

若菜正久機関士

菰田庄一機関助士

が担当しました。

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▲昭和44年当時の房総東線(現:外房線)の時刻です。

赤で囲った列車がさよなら列車として走った221列車です。

他の列車が土気-大網間を10~12分程度で走っているのに対し、221列車は22分かかっています。

当時の大網駅はスイッチバック式になっていましたので、SL列車は列車の反対側に機関車を付け替える作業と、SLをぐるっと方向転換する作業がありました。この22分間というのはその分の時間が含まれているということです。

その間、乗客たちはホームに出てひと息ついたり、駅弁を買ったりしていたのでしょう。のんびりした時代だったことがわかります。

当時の機関士さんにお話をお伺いしました。

こんなお話をしていただいたのは当時蘇我機関区でSL乗務員として日夜蒸気機関車のハンドルを握っていらした千葉市在住の米野磐(よねのいわお)さん。今回は50年前のさよなら運転当時の貴重なお話をお伺いしてきました。

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▲米野磐さんです。(筆者撮影)

米野さんは昭和10年生まれの84歳。

大原のご出身で昭和28年に国鉄千葉鉄道管理局に入り当時の千葉機関区に配属されました。

最初は庫内手として機関車の掃除係で、当時は機関車といえば蒸気機関車ですから灰を処理したり油を差したり機関車を磨いたりの重労働。

その後勝浦機関区へ転属となり、今度は気動車(ディーゼルカー)の冷却水の給水や燃料の給油等を担当されました。

ちょうど当時は国鉄の最先端実験線区として房総半島をぐるりと回る千葉発の内房線、外房線の旅客列車に気動車が投入されたころで、近代化への流れが動き始めた時代でしたが、米野さんは電車や気動車ではなく、SLの乗務員を希望したそうです。

「そりゃあ、機関車が好きでしたから。でもね、電車に進んだ連中はみんな出世して行ったんだよね。」

米野さんは目を細めながら当時のお話を懐かしく語ってくださいました。

「あの日の両国駅はとにかくすごい人出で、自分はその日は非番だったので仲間が運転する最終列車に乗せてもらおうと出かけて行ったんだけど、写真を撮るどころじゃないですよね。だからこんなカットしかないけれど。」

今回掲示している写真はすべて米野さんが所蔵されている写真をお借りしたものですが、大混雑の様子が伝わってきます。

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▲発車前の様子です。

線路の上にまでたくさんのファンが出てきています。

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▲両国駅を発車するさよなら列車の最後部から撮影したカット。

「とにかくすごい人で、一番後ろの客車にやっと乗り込んだんですよ。」

と米野さん。

最後の姿を見送ろうとたくさんのファンが集まっているのがわかりますが、線路に降りているのは今では考えられませんね。

でも、当時は当たり前だったという証拠写真です。

この時小学3年生だった筆者は、「さよなら列車を見に行きたい。」と言ったところ、親から「危ないからダメだ」と言われたことを思い出しますが、この様子じゃあ確かに子供は危険です。東京都内から発車する最後のSL列車とあって皆が過熱気味だった当時のSLブームのすごさがわかります。

どの機関車が好きでしたか。

米野さんは千葉県の房総半島で長年SLのハンドルを握って乗務されてきた方です。

当時の千葉にはC57、C58、D51、C12、8620などのSLが配置されていましたが、それぞれに特色があったと聞いています。そこで、どの機関車がお好きか聞いてみました。

「好きな機関車というよりも、嫌いだったのはC58だねえ。」

どうしてですか?

「あの機関車は暑いんですよ。特に夏は房総への海水浴臨時列車に使われていてよく乗務したんだけど、とにかく運転席の中が暑い。あれが一番大変だったねえ。」

というのも、C58は密閉式運転室という構造になっていて、運転席にドアが付いていて風通しが悪いそうで、冬は吹きさらしにならないけれど逆に夏は運転室内が暑いとのこと。いろいろな形式の機関車に乗務された方じゃなければわからない言葉です。

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▲C58の運転席に座る米野さんです。(昭和30年代)

運転室にドアが付いているのがわかります。

これが当時密閉式運転台と呼ばれたスタイルです。

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▲こちらは筆者が撮影した「SLやまぐち号」D51の運転席です。

ドアがありませんね。

米野さんが暑くて参ったとおっしゃるのはこういうことなのです。

両国駅から最後のSL旅客列車が走ったその翌年の昭和45年3月24日、今度は貨物列車の牽引からSLが消えました。

江東区の越中島から亀戸を通って新小岩を結ぶ貨物専用線が名実ともに都内最後のSLとなりました。

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▲最終日のさよなら列車に使用されたD51-21号機です。

この機関車は煙突の後ろのドームの形状から「ナメクジ」と呼ばれたタイプ。

筆者が「ナメクジは当時の新小岩に2台いましたよね。」と申し上げると、

「そう、この21号機と50号機。21号機は良いカマだったけど50号機の方は蒸気上がりが悪くてねえ。」

50年も前のことを克明に記憶されていらっしゃるとは驚きです。

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▲D51-21の引く貨物列車。

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▲こちらは蒸気上がりが悪く機関助士泣かせだったというD51-50号機。

こういう写真がすぐに出てくるのも流石です。

なにしろ50年も前のことですから。

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▲昭和40年当時、SLのハンドルを握る米野さんです。

SL乗務員として一番脂の乗っていた頃ではないでしょうか。

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▲運転室から撮影したこんな写真も見せていただきました。

東関道が上を越える現在の稲毛駅付近でしょうか。

昭和44年3月、都内、千葉に雪が降った日ですが、SL廃止直前にディーゼル機関車を前に付けて慣らし運転をしているその反対側を電気機関車が通過する、蒸気、電気、ディーゼルの3つの機関車が1枚に写った貴重なカットです。

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▲SL廃止後は電気機関車に乗務した米野さんです。

蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車と貨物列車から旅客列車まで機関車なら何でも乗務されていた御経験がある現代の生き字引のような方ですね。

大切なのはモチベーションを与えること。

米野さんは本当に鉄道がお好きな方ですが、どうしてそんなに鉄道が好きだったんでしょうか。

「私が生まれたころ、おじいさんが今の館山駅、当時の安房北条機関区で助役をやっていて、父も国鉄でしたから、うちは親子3代の鉄道一家なんです。」

米野さんはそうおっしゃられました。

ということは、小さい時から鉄道マンの家で育って、お爺さんやお父さんが働く背中を見て育ったということです。

そして、そのお爺さんやお父さんは、立派な態度で職務を全うされていたということになります。

そんなお姿を見て育った米野少年とすれば、自分も将来鉄道に入るという希望を持つのも自然なことですね。

筆者も小学生の頃、亀戸の総武線ホームで電車を待っていた時に、目の前を越中島に向かうSLの貨物列車が煙を吐きながら走る姿を見ました。

運転席に向かって夢中で手を振ると、機関士さんが「ポッ」と汽笛を鳴らして白手袋の手を上げて振り返してくれました。

「かっこいいなあ。」

そう思ったことをはっきりと覚えています。

そういうことが何度もありました。

今、こうして還暦近くなっても鉄道関係のお仕事をさせていただいているのは、子供のころに「ボクも大きくなったら鉄道で働きたい。」と思わせてくれた大人たちがいたんですね。

電車の運転士さんは皆さん電車の運転士になりたくて、希望して、努力して、今電車の運転士になっていると思います。

やりたくないけど仕方ないから電車の運転士になったという人は、まずいないのではないでしょうか。

そして、そういう皆さんには、子供の頃、自分にモチベーションを与えてくれた当時の大人たちが少なからずいたはずです。

電車の運転士に限らず、どんな職業でも、その職業に憧れて、努力して、チャンスをつかんで仕事に就くことができた人であれば、その職業に就くために努力することのモチベーションを与えてくれた大人たちがいたのです。

例えば学校の先生に憧れて学校の先生になった方は、子供の頃、自分も大きくなったら立派な先生になりたいとモチベーションを与えてくれた先生がいたはずで、そういう先生に出会えたからこそ今があるのではないでしょうか。

だとしたら、今、自分が憧れの職業に就くことができた皆さん方は、今度は皆さんの側から、自分が働く姿を通して、「ボクも大きくなったらああなりたいなあ。」というモチベーションを次の時代を担う子供たちに与えるべきではないでしょうか。そして、それが、自分が子どもの頃モチベーションを与えてくれた当時の大人たちに対する恩返しになるのではないでしょうか。

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国鉄退職後、米野さんはディズニーランドのSL列車の運転士さんになられました。

ディズニーランドの機関車はおもちゃのようですが本物の蒸気機関車です。

取り扱いを誤ると故障したり事故につながります。

それまでの経験を活かして後輩たちの指導をされてきたのはもちろんですが、毎日毎日お客様として乗ってくる小さな子供たちに思い出とモチベーションを与え続けたのです。

もしかしたら、筆者が子どもの頃、亀戸駅で走りゆくD51に手を振った時、汽笛を鳴らして手を振り返してくれたのは米野さんかもしれない。

今回の取材で、ふと、そんなことを感じました。

米野さん、いろいろとお話を聞かせていただきましてありがとうございました。

今後も若い人たちにたくさんSLの話を聞かせてあげてください。

そしてどうぞいつまでもお元気でご活躍をお祈りいたしております。

今からちょうど50年前の今日、両国駅を発車した「蒸気機関車さよなら列車」のお話でした。

※本文中に使用しました写真は表記のあるものを除き、米野磐さん所蔵のものです。

※最終列車の乗務員氏名等につきましては米野さんの記録によるものです。

大井川鐵道代表取締役社長。前えちごトキめき鉄道社長

1960年生まれ東京都出身。元ブリティッシュエアウエイズ旅客運航部長。2009年に公募で千葉県のいすみ鉄道代表取締役社長に就任。ムーミン列車、昭和の国鉄形ディーゼルカー、訓練費用自己負担による自社養成乗務員運転士の募集、レストラン列車などをプロデュースし、いすみ鉄道を一躍全国区にし、地方創生に貢献。2019年9月、新潟県の第3セクターえちごトキめき鉄道社長、2024年6月、大井川鐵道社長。NPO法人「おいしいローカル線をつくる会」顧問。地元の鉄道を上手に使って観光客を呼び込むなど、地域の皆様方とともに地域全体が浮上する取り組みを進めています。

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