10代将軍の足利義稙が大内義興に庇護され、山口で過ごした理由
今でも政治亡命はあるが、我が国の戦国時代にもあった。10代将軍の足利義稙は大内義興に庇護され、山口で過ごしたが、その理由を考えることにしよう。
足利義稙は、足利義視(義政の弟)の嫡男として誕生した。将軍に就任した義稙は、反抗する六角氏討伐を行うなど、将軍親裁権の強化を企てた。明応2年(1493)2月、義稙は畠山基家を討つため河内に出陣した。
同じ頃、細川政元と日野富子(足利義政の妻)がクーデターを起こし、足利義澄を11代将軍に擁立した(明応の政変)。義稙は河内で捕らえられ、のちに越中に亡命した。その後は京都奪回を図るが、実現しなかった。
義稙は大内義興を頼り、明応8年(1499)12月に楊井津(山口県柳井市)を訪れた。翌年1月、義稙は山口に入り乗福寺に住んだが、義興は義稙のために館を築いた。義稙は、「宮野御所」と称されたという。
義稙は大内氏の庇護のもと、京都奪還をうかがっていた。義稙は西国などの有力守護らに対し、京都奪還の協力を呼び掛けた。義稙は亡命中だったが、将軍として振る舞い、多数派工作を画策したのである。
一方、義澄や政元は西国などの有力守護らに対して、義稙、義興の退治を命令する文書を送り続けた。しかし、永正4年(1507)、政元が家臣に殺されると、義稙はチャンスとばかりに上洛を計画したのである。
同年11月、義稙と義興は山口を出発すると、西国の有力守護に味方になるよう要請しつつ上洛の途についた。一方、政元を失った京都は混乱しており、政元の養子の澄元と高国が抗争を繰り広げていた。
義稙は高国と結ぶことで、局面を打開しようとした。澄元は義澄を将軍として戴いていたが、永正5年(1508)3月に義稙の攻勢に屈して近江へ逃れた。
戦後、義興は左京大夫に任じられると、管領に準じるような立場で義稙を支えた。同時に山城国守護を兼任するなど、絶大な権力を手にし、長期にわたり在京することになった。義稙も悲願の将軍に復帰したのである。
その後も義稙と義澄の抗争は続いたが、義澄の急死もあって、義稙の地位は揺るがなかった。しかし、義興は義稙・高国との関係が悪化し、のちに出雲尼子氏の挙兵が問題となり対処に迫られた。
そこで義興は、永正15年(1518)に帰国の途についたのである。義興の帰国により、後ろ盾を失った義稙は、以後の対応を迫られたのである。