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センバツ第2日 静岡に敗退も、立命館宇治・卯瀧監督の挑戦は続く

楊順行スポーツライター

「四死球からの大量失点という課題だったり、軸のぶれないスイングだったり。打力のいいチームと対戦して、投打ともいい勉強になったと思います」

卯瀧逸夫(うだき・いつお)監督は、静岡に1対7で敗れたあと、そういった。立命館宇治を率いては5年ぶり2回目、自身10回目の甲子園だったが、鳥羽を率いていた00年夏以来の勝利はならなかった。

「これこれ、この雑誌ですわ」

卯瀧とじっくり話したのは、14年冬のことだった。こちらが持参した資料にふと目を止め、そう切り出した。当時僕が編集にたずさわっていた雑誌・高校野球マガジン1986年10月号のコピーである。その夏の各地方大会で躍進したチームの特集だった。京都府大会で敗れた北嵯峨もそのひとつで、創立12年目の新鋭校を率いていたのが、卯瀧監督だ。

「部員はみんな、買うてましたわ。この雑誌に出してもらったことで、“ヘタなことはできん”と思ったところはあるでしょう。実際に雑誌が出たあと、京都大会で3位になり、神宮大会にも出たしね。初戦で敗れましたが(4対10愛知)、全国大会で得た自信は大きいですよ。前のチームが京都の決勝まで行き、学校自体も上り調子。これらの条件がそろって、翌年夏の初出場につながったと思います」

そうなのだ。その翌87年夏、北嵯峨は甲子園初出場を遂げる。自らが関わった雑誌が、甲子園へのエネルギーになったというのは、ちょっとにんまりである。以後卯瀧監督は北嵯峨で計5回、鳥羽で3回甲子園に出場した。そして立命館宇治では、2回目の甲子園。異なる3校以上で甲子園に出場したのは蒲原弘幸監督(佐賀商、千葉商、印旛、柏陵)ら数名いるが、同一府県で、しかも公立・私立を率いてとなると、卯瀧のほかに森下知幸(浜松商、日大三島、常葉菊川)、小川成海(広島工、高陽東、瀬戸内)くらいだ。

49年生まれの卯瀧の北桑田高時代、京都は平安(現龍谷大平安)、京都商(現京都学園)が2強で、北桑田は弱小もいいところだった。なにしろ実質的に指導者不在で、部員が野球雑誌や書物から知識を仕入れ、練習メニューを工夫するようなチームなのだ。卒業後は中京大に進んだが、

「中京商(現中京大中京)とか三重とか、甲子園の常連からすごい選手たちが集まっていたんです。1学年上の榎本さん(直樹・元ヤクルトなど)とブルペンで並んで投げると、そりゃもう……という感じですよ。上には上がいる、プロや社会人でやるのはこういう人たちやなぁ、と思いました」

と、野球部は2年で退部する。そのかわり、高校時代に「指導者に飢えていた」卯瀧、大学で同期になった甲子園組から聞く高校時代の練習内容がなんとも新鮮だった。そうなんか、そんな高度なことをやっとったら、そりゃ甲子園にも出るわ……さらに教育実習に行った母校で野球部の練習を手伝った経験もきっかけとなり、指導者を志すことになる。小学校の教諭を経て、北嵯峨に赴任するのが77年。創部3年目の野球部の監督になったときには、28歳になろうとしていた。

駆け出し時代、同じ京都のライバルにも教えを請うた

ただ、指導者としての経験は皆無。卯瀧によると、「当然ですけど、教えるのはヘタ。富士山に登るにはいくつもルートがあるのに、自分はひとつしかなかった」。たとえば、基本が大切だという。だが、その基本の動きをするために、体の各部位を、筋肉をどう使うのかとなると、説明する技術がない。では、どうするか。卯瀧は、積極的に機会をつくって先輩監督に話を聞いた。北陽(現関大北陽)・松岡英孝には「卯瀧君、いくつや? 子供を持ったら、もっと野球のことがわかるよ」などとおちょくられながら、しつこく質問攻めにした。ほかにも、平安を率いていた中村雅彦の家に押しかけ、京都西(現京都外大西)に三原新二郎が赴任すると、教えを乞うた。同じ府内なのに、

「あちらは、ライバルとも思ってなかったでしょうから。ただ、5年目の夏にはベスト8、翌年はベスト4と、少しずつ力がついている実感はありました。87年夏に、運よく京都西に勝って甲子園に行くと、さすがに三原さんもなにも教えてくれなくなりましたが(笑)」

97年には鳥羽に異動した。夏の第1回大会で優勝した京都二中の流れをくむ古豪を、53年ぶりの甲子園となる00年センバツに導くと、近沢昌志(元近鉄など)を擁してベスト4。京都のオールドファンを喜ばせた。その後は副校長として京都すばるに異動し、総監督として野球にたずさわった。立命館宇治の監督となるのは、07年のことだ。

「初めて私立を率いたわけですが、練習環境はやはり府立より整っていますね。たとえば北嵯峨だったら、京都の学区制があって地元中学の生徒しか来られないし、鳥羽にしても練習時間には制限がありました。ただここは、大学の付属だから進学の心配がないでしょう。その分、もっと練習に目の色を変えてくれたらいいのに……と、もどかしく思うことはあるんですよ」

そのときの取材が雑誌になってから、1年がたつ。「公立と私立の3校すべてで勝ち星」という、過去にちょっと例がない記録はおあずけになったが、これからもチャンスはあるだろう。おっと、大事なことを聞き忘れてしまった。「もどかしく思うことはある」という卯瀧のコメントを雑誌で使わせてもらったのだが、それがまたしても選手たちの発奮材料になったのか、そして今回のセンバツ出場につながったのかどうか……。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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