徳川家の本拠地岡崎に戻ってくる、本多忠勝の子孫
大河ドラマ「どうする家康」で重要な役割を演じた徳川家康四天王の中でも、最も目だった活躍を見せたのが山田裕貴演じた本多忠勝である。
本多氏は徳川家譜代の有力家臣である。三河本多一族には多くの流れがあり、忠勝の家が嫡流とされる。しかし、2歳のときに父忠高が討死したことから、忠勝は叔父忠真のもとで育てられた。そして、13歳のときに尾張大高城の攻略戦で初陣を果たすと、以後三河一向一揆、姉川の戦、三方ヶ原合戦、長篠・設楽原の戦、高天神の戦など家康の主要な戦いにおいて抜きんでた戦功をあげた。生涯57回戦いに参加しながら1度も手傷を受けなかったという伝説もある。
天正18年(1590)家康の関東入りでは上総国大多喜(現在の千葉県大多喜町)10万石を拝領した後、関ヶ原合戦後は伊勢桑名10万石に転じ、大坂の陣の前の慶長15年(1610)に死去した。
その後の本多氏
忠勝の跡を継いだ長男忠政は大坂の陣に参陣、冬の陣では先鋒をつとめ、翌年の夏の陣でも活躍したことから、戦後の元和3年(1617)に西国の抑えとして播磨姫路15万石に加転となった。
このあと、譜代大名である本多家は各地を転々とすることになる。
4代目の政勝は大和郡山15万石に入封、以後は陸奥福島15万石、再び播磨姫路15万石と重要な拠点を任されていたが、宝永元年(1704)に継いだ忠孝はわずか7歳だったため、要所の姫路から越後村上15万石に移された。
そして、その忠孝も宝永6年(1709)にわずか12歳で死去した。跡継ぎのいない大名は本来は断絶となるところだが、忠勝の嫡流ということで一族の忠良が継ぐことを認められ、5万石に減知のうえ三河刈谷に転封となった。忠良は8代将軍吉宗のもとで老中をつとめている。
三河岡崎に戻る
その後も子孫は下総古河5万石、石見浜田5万石と転じ、明和6年(1769)忠粛の時に徳川家康の本拠地であり、本多一族にとってもルーツともいえる三河岡崎に転じ、以後100年間この地に定着した。
忠粛の養子となって跡を継いだ忠典は矢作川流域で綿花の栽培を奨励し、幕末の当主忠民は京都所司代や老中といった要職を歴任している。明治維新後は子爵となった。
このほか、分家として播磨山崎1万石の藩主と、陸奥泉1万4000石の藩主家がある。