「東洋一」「不夜城」と呼ばれた兵庫県の選鉱場跡 30年ぶりに公開!
大正から昭和にかけて、スズや銅、亜鉛などの一大選鉱場として日本の近代化に大きく貢献したのが、兵庫県朝来(あさご)市の神子畑(みこばた)選鉱場です。その跡地は1987(昭和62)年の閉鎖後は立ち入り禁止となっていましたが、11月19日、初めて一般公開されました。
兵庫県中部の朝来市や養父(やぶ)市の山間部には、「佐渡の金・生野の銀」といわれ、日本初の官営(政府直轄)鉱山として栄えた生野銀山(朝来市)があります。さらに、スズの国内生産の約9割を担った明延(あけのべ)鉱山(養父市)、近畿地方最大の金山、中瀬鉱山と、国内屈指の鉱山があります。
神子畑選鉱場は1919(大正8)年、約6キロ離れた明延鉱山の鉱石を選別するために、山の斜面を利用して建てられました。その後は徐々に拡張し、1940(昭和15)年の工事を経て、「東洋一」といわれる規模となりました。2003年の調査では、22階層、高低差75メートル、幅110メートル、斜距離165メートルという大きさが確認されています。
24時間稼働し、夜中もこうこうと灯りがともる様子は「不夜城」とも呼ばれました。しかし、1987年、明延鉱山の閉山に伴い操業を終了。建物は残されましたが、2004年、老朽化のため取り壊されました。現在は、コンクリートの基礎部分やシックナー(鉱石と水分・薬品を分離する円形の水槽)が残っています。
一般公開は、2017年4月、姫路市の飾磨(しかま)港(現在の姫路港)から生野、神子畑を経て明延、中瀬鉱山へと続く、かつては馬車で鉱産物や採掘・製錬資材などを運んだ南北73キロの道を巡る「ストーリー」が、「播但(ばんたん)貫く、銀の馬車道 鉱石の道」として、日本遺産に認定されたことを記念して行われました。神子畑選鉱場跡の最上部が、特別に公開されたのです。
この日は時折小雨がちらつく肌寒い天気でしたが、一般公開には約500人が駆け付けました。最上部まで上るバス乗り場には、開始前から多くの人々が列を作っていました。
選鉱場周辺には映画館やスーパーも
最上部では、選鉱場の元従業員2人がガイドを務め、訪れた人たちに選鉱場の役割や往時のにぎわいなどを説明していました。
そのうちの1人、80代の男性は、10年あまり選鉱場に勤務していました。選鉱場や社宅の設備の設計、管理を担当していたそうです。
男性によると、選鉱は、上から下へと順番に行われました。上層階では、明延鉱山から運ばれてきた鉱石を粉砕、ふるいにかけるなどしてサイズごとによりわけました。中層から下層階にかけては、銅や亜鉛は浮遊選鉱機、スズは比重選鉱機にかけて選別していきました。男性は「戦時中の最盛期は、1カ月で3万5000~6000トンもの鉱石を扱っていました」と話します。
神子畑地区には、選鉱場の従業員やその家族らが生活していました。鉱山が経営するスーパーや映画館、劇場などの福利厚生施設は、多くの人でにぎわったそうです。地区の人口は現在、40人ほど。小学校は廃校となり、跡地には、珍しいプレコン工法で建てられた体育館が残ります。
「私がいた時は家族も入れて2000人ほどの人がいました。小学校の運動会はにぎやかで、祭りには、有名なタレントが来ましたね。映画は週2回上映され、昼は従業員の家族、夕方からは仕事を終えた従業員が見に行きました。料金は10円だったかな」。男性は懐かしそうに振り返ります。山あいで雪深いため、大雪で選鉱場のスレート屋根に穴が開き、屋根が落ちてきたこともあったそうです。
最上部からは、直径30メートルもあるシックナーをはじめとした選鉱場の遺構を見渡せ、訪れた人たちは興味深そうに下をのぞき込んでいました。普段は下から見上げるだけの各フロアの従業員や貨物を運んだインクライン(傾斜軌道)の操作室も見ることができました。
朝来市によると、日本遺産の登録以降、選鉱場跡を訪れる人たちは増えているそうです。日本の近代化を支えた遺構からは、鉱山で働く人たちの息遣いが感じられるようでした。
撮影=筆者