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能登半島地震で石川県七尾市の実家が被災 避難所は住民自身の手で開設された

南文枝ぐるぐるフリーライター/防災士/元毎日新聞記者
地震で倒壊した家屋(石川県七尾市で2024年1月4日撮影)

 2024年1月1日に発生し、石川県の能登半島を中心に死者200人以上、多数の家屋の倒壊・損壊といった甚大な被害をもたらした能登半島地震。石川県七尾市にある筆者の実家も被災した。大津波警報が出た時、高齢の両親や姉家族らはどう動いたのか。そして地域の避難所はどのようにして開設されたのかを聞いた。

※地震の発生時や避難所開設の状況は、地域や時間帯、被害状況などによって違います。以下に書いたことは、あくまで一例です。

「七尾市 津波は既に到達」。元日の午後4時20分ごろ、兵庫県の自宅で見たテレビの画面は忘れられない。七尾市の震度は6強。そこには、80代の父親と70代後半の母親、40代の姉家族、友人・知人らが暮らしている。実家は平坦な土地にあり、海岸までの距離は約500メートル。実家の電話や両親や姉のスマートフォンにかけてもつながらない。「逃げていてほしい」と祈るしかなかった。「家の中はぐちゃぐちゃだけど、みんな無事で避難所にいる」と父親から連絡があったのは午後6時半ごろだった。

 両親や姉たちがいたのは、七尾市の指定避難所である田鶴浜体育館だ。筆者の出身地である旧田鶴浜町は、2004年に七尾市、中島町、能登島町と合併し、現在の七尾市となった。体育館は、旧田鶴浜町の街なかではかなり高台にある。市のハザードマップによると、海抜は13.8メートルだ。

両親らが避難した田鶴浜体育館。断水の中、各地の自治体から給水車が来てくれた(2024年1月4日撮影)
両親らが避難した田鶴浜体育館。断水の中、各地の自治体から給水車が来てくれた(2024年1月4日撮影)

「もう自分たちが動かないといけない」

 姉や大学生のおいに当時の状況を聞いた。地震発生時、他県から帰省中だったおいは、テレビでサッカー中継を見ていたという。それまでにも少し揺れたが、「いつもの地震かな」と特に気にしていなかった。その次の瞬間、激しい揺れが来た。立つことも移動することもできなかった。頭をかばって、じっとしていた。

 揺れが収まると、彼は隣の祖父母宅に向かった。倒壊は免れたが、台所には割れた食器が散乱。寝室のベッドには、大きなタンスが覆いかぶさっていた。すぐに津波が迫っているという情報が入る。テレビや動画サイトで見た東日本大震災の映像が頭をかすめた。「早く逃げよう」。両親と姉一家は、6人で車に乗り込んで高台にある田鶴浜地区コミュニティセンターを目指した。

被災後の台所の様子。食器棚から食器が落ち、足の踏み場もない状態に(家族提供)
被災後の台所の様子。食器棚から食器が落ち、足の踏み場もない状態に(家族提供)

両親の寝室は、大きなタンスがベッドに倒れ込んでいた。就寝中だったらとぞっとする(家族提供)
両親の寝室は、大きなタンスがベッドに倒れ込んでいた。就寝中だったらとぞっとする(家族提供)

 しかし、ここで問題が発生する。実家近くを走るのと鉄道七尾線の踏切の遮断機が下りたままの状態になっていたのだ。普段の生活の感覚から、通ってよいかどうかも迷ったが、前方の車に乗っていた男性が遮断機を持ちあげて、後続車を通してくれた。渋滞の中、コミュニティセンターの駐車場にたどり着く。余震が続く中、その場にいた人たちと近くの小学校のグラウンドに逃げた。

「(地面に)亀裂が走ると危ないから、とにかく運動場の真ん中に寄りましょう」。誰かの声が響く。寒さに震えていると、ようやくグラウンドの隣にある体育館の電気がついた。しかし、体育館の中に入ると天井の建材が落ちたのか、床は真っ白だった。2階には、割れた窓ガラスが散乱していた。

「もう自分たちが動かないといけない」。姉は周りにいた人たちと協力して、体育館の倉庫からモップを取り出し、1階と2階にかけ始めた。おいたちがよく使っていた体育館のため、どこに何があるのかはだいたい見当が付いた。パイプ椅子を出してきて並べ、高齢者に座ってもらう。座布団や段ボール、ござ、布……使えそうなものは何でも出した。おいたちは、片っ端から段ボールを分解していった。そのうちに「元気な人は動いてください」と率先して声をかける人も出てきた。

暗闇の中、懐中電灯の明かりを頼りに畳を運ぶ

 冬の体育館は寒い。「近くの施設に畳があるから取りに行こう」。誰かが言い出し、動ける人たちで数十メートル離れた施設へと向かった。正月で帰省していたのか、若い人たちもいたという。日も暮れて真っ暗な中、懐中電灯で照らしながら、畳や座布団をリレー方式で体育館まで運んでいく。体育館の床にシートを敷き、その上に畳を置いたが、それでも寒かった。

 トイレは避難者が入った時点で使えなかったため、男性は外で、女性は何人かが続けて用を足した後に、タンクに水をためて流すようにした。トレーニングルームは、医療室として使うことに。こうして、住民らの手で避難所は開設された。

 時間が経つにつれ、寒さはどんどん厳しくなっていく。いったん自宅に戻り、自宅から布団を運び出す人も増えてきた。姉は「余震もあるし、寒くて全然眠れなかった」と振り返る。体育館の真ん中に大きなストーブを置き、布団や毛布がない人たちは、その周りを囲むパイプ椅子に座って暖を取った。うまく眠れずに、椅子から落ちるお年寄りもいたという。

 翌日、電気が復旧したこともあり、津波警報解除後に両親と姉家族は自宅に戻った。しかし、水道はなかなか復旧しなかった。わき水や近くの川でくんだ水、バケツにためた雨水を、トイレのタンクに入れて使った。水のタンクは、近所の住民が貸してくれた。水を分けてくれる人もいた。

 七尾市のホームページによると、1月11日午後6時現在、体育館には88人が避難している。「自分たちの手で避難所を開設するとは思わなかった」と姉は言う。報道などで見る避難所の写真や映像は、間仕切りで区切られ、床にはシートが敷かれるなど、整備された状態だったから。「若い人たちがいたから良かったけど、しんどい思いをしてたどり着いて一から避難所をつくるなんて。お年寄りばかりならできなかった」

避難所に何があるのか、どう動くのかを想定する

 筆者は1月4日に実家を訪れた。旧田鶴浜町の中心部の道路は崩れた建物でふさがれ、電柱は斜めに傾いていた。多くの家屋に被災建築物応急危険度判定で「立ち入るのは危険」と判定された赤い紙が張られていた。おいは「友達の家に遊びに行くために通った道や周りの家がぐちゃぐちゃになって、ショックだった」と話す。

子どもの頃、自転車でよく通った道の両脇で、建物が崩れていた(2024年1月4日撮影)
子どもの頃、自転車でよく通った道の両脇で、建物が崩れていた(2024年1月4日撮影)

 教諭を目指すおいは、街を歩いて写真を撮った。「なるべくここのことを覚えておいて、残しておいて、(将来教諭になれたら)ちゃんと何か伝えたいと思って」。現在は県外のアパートに戻り、水が出るありがたさを実感しているという。「七尾にいる時は、トイレも極力しないように我慢していた。お風呂も入れないし。最初は大丈夫だと思っても、時間が経って、長期化してくるとまいってくる。トイレに自分の行きたい時に行けるって、すごくありがたいことだと思う」。非常食などの備蓄の大切さも痛感している。

 災害時、避難所はあらかじめ整備されているわけではない。住民が自分たちで開設しなければいけないこともある。南海トラフ巨大地震が起きる可能性もある中、自分や家族が災害時に逃げる避難所はどこで、そこにどのような物資があるのかを確認し、どのような状況が想定されるのかを考える必要がある。

※写真は筆者撮影、一部家族提供

※令和6年(2024年)能登半島地震に係る災害義援金の受付について(石川県のホームページ)

ぐるぐるフリーライター/防災士/元毎日新聞記者

1979年、石川県生まれ。同志社大学経済学部卒業後、北國新聞記者や毎日新聞記者、IT企業広報を経て、2013年からフリーライターとして書籍や雑誌、インターネットメディアなどで執筆。現在は兵庫県小野市在住。これまで当ページやニュースサイト「AERAdot.(アエラドット)」などで大阪、神戸、四国の行政や企業、地元の話題など「地方発」の記事を執筆。最近は医療関係者向けウェブメディア「m3.com(エムスリーコム)」で地域医療の話題にも取り組む。地方で面白いことをしている人に興味があります。

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