現役最後の騎乗を前に、半生と、引退に至った経緯を本人に伺った
女手一つで育てられ
明日の28日、中央競馬は今年、最後の開催が中山と阪神で行われる。
その中山競馬で、騎手としての最後の騎乗をするのが、調教師試験に合格し、引退を決めた田中勝春。そして、もう1人、同じように鞭を置く男がいる。
柴山雄一。
1978年2月生まれで、現在45歳。騎手としての波乱万丈の半生を振り返っていただきつつ、ジョッキー生活に終わりを告げる理由を伺った。
大阪府寝屋川市で、父・栄次郎、母・けい子の下、2人の姉と共に育てられた。しかし、柴山がまだ小学生2年生の頃に父が他界。
「それ以降はいわゆる女手一つ、母に育ててもらいました」
中学3年の時、その母から、思いもしない事を言われた。
「『騎手を目指しては?』と言われました。テレビでやっていた競馬学校のドキュメンタリー番組を見て、思い立ったそうです」
しかし、その年の受験は既に終わっていた。そのため高校に1年通った後、受験。合格なら福永祐一らと同じ“花の12期生”になるところだったが桜は咲かなかった。翌年も不合格となると、高校を中退し、牧場で働いた後、3度目の試験に臨んだが、ここでも落ちてしまった。
「結局、笠松で開業する飯干秀人調教師を紹介してもらい、地方競馬教養センターに入った後、笠松でデビューしました」
ところが、夢にまで見た騎手の道は平坦ではなかった。元来、しっかりした体つきという事もあり、何度も体重調整に失敗。主催者から引退を勧告されそうになった。
「後に人から聞いて知ったのですが、師匠の飯干先生が主催者側に土下座をしてまで『もう1度、チャンスを与えてください』と言ってくださったそうです」
また、兄弟子の安藤光彰(当時騎手、引退)が汗取りのためのサウナに付き合ってくれるなど、周囲の人達に助けられると、2004年には笠松リーディングの4位になるまで躍進してみせた。
「同じ頃、笠松の先輩の安藤勝己さんがJRAの騎手試験に合格されました」
これに刺激を受け、後を追うように受験した。すると、JRAの門扉は思いがけず一発で開いた。05年、美浦・畠山吉宏厩舎からJRA騎手として、改めてデビューしたのだ。
「3回も試験に落ちていただけに“まさか?!”という気持ちでした。母も凄く喜んでくれて、道を拓いてくれた安藤さんとJRA、自分を育ててくれた笠松には感謝しかありませんでした」
晴れてJRA入り
晴れてJRAデビューを果たすと、1年目にはいきなり80勝。重賞も勝利し、一躍、時の人となった。しかし、2年目以降は徐々に勝ち鞍が減少。3年目の07年は菊花賞(GⅠ)で1番人気に推されたロックドゥカンブに騎乗したが、アサクサキングスの3着に終わった。
「良い馬でした。いつも前へ行ける馬なのに、この時は後ろからになってしまい、それでも最後だけで3着まで追い上げてくれました。自分としては、色々な人に対し申し訳ない気持ちで一杯になり、悲しいというか絶望感に苛まれ、トレセンに顔出すのも嫌になるくらい落ち込みました」
更に成績が右肩下がりになる中、出合ったのがヤマニンメルベイユだった。
「気が良くて、いかに機嫌を損なわずに乗るかがポイントになる馬でした」
08年の中山牝馬S(GⅢ)もそんな思いで騎乗した。すると……。
「うまくなだめる事が出来て、気持ち良く走ってくれ、勝てました。重賞を勝つ事の嬉しさや大変さ等、色々と教えてくれた馬でした。年々成績が悪くなっていた時期だったので、この馬との出合いがなければ、もっとガタガタと落ちて行ったかもしれません」
もう一つ、彼女には感謝しなくてはいけない事があった。
「オーナーの土井睦秋さんとの親交も、この馬がきっかけで強くなりました」
09年の札幌記念(GⅡ)では同オーナーのヤマニンキングリーに騎乗。単勝1・5倍で圧倒的な1番人気に推されていたブエナビスタの猛追を抑え、優勝。すると、翌10年、同馬がシンガポールへ遠征し、GⅠに挑戦した際も、引き続きその鞍上を任せてもらえた。
「残念ながらそのレースは勝てなかったのですが、土井さんには『いつか一緒にGⅠを勝とう』と言っていただき、励みになりました」
他にも助けてくれる人はいた。12年頃から、コンスタントに乗せてくれるようになったのが、当時まだ現役だった藤沢和雄(元調教師、引退)だ。こういった人達のサポートを受け、15年には05年以来となる72勝をマーク。同年のNHKマイルC(GⅠ)は、フラワーC(GⅢ)勝ちのアルビアーノとのタッグで挑むと、直線一度は抜け出し、ラスト200メートルでもまだ先頭を維持していた。
「叩くと尻尾を振って嫌がるような難しい馬で、鞭を入れられませんでした。それで早く動いたのですが、結果的には早く動き過ぎたかもしれません。一発勝負に懸けた感じのノリさん(横山典弘騎手)のクラリティスカイに最後の最後で差されてしまいました」
手が届いたかと思えたGⅠのタイトルが、スルリと滑り落ちた。
「母は『もう少しだったのに……』と、自分以上に悔しがっていました。苦しい時期も黙って見守ってくれた母のためにも勝ちたかっただけに残念でなりませんでした」
恩人が逝き、母は倒れ、ついには自らも……
翌16年の春だった。土井氏が入院。柴山は電話を入れた。すると……。
「『すぐに退院できるからお見舞いには来ないで良い』と言われました」
しかし、それが最後の会話となった。6月9日、永眠の報を耳にして、愕然とした。
「苦しい時に助けていただいたのに“一緒にGⅠを勝つ”という約束を果たせないままのお別れになってしまい、悔しかったです」
それからしばらくして、今度は母が倒れた。柴山はすぐに母の住む大阪へ飛んだ。
「脳梗塞でした。お医者さんからは『今後は誰かが介護しないと生活出来ない』と言われてしまいました」
それからしばらく美浦と大阪の二拠点生活を続けた。
「そんな時、藤沢厩舎で仲良くなった武幸四郎先生に声をかけていただき、栗東に籍を移す決意をしました」
技術調教師時代の武幸四郎は、藤沢の下で研修をしていた。柴山は、彼の兄の武豊とも懇意にしていた事から、すぐに意気投合した。母の介護を考えても、物理的に小回りの利く栗東の方が良く、20年、正式に関西へ移籍したのだ。
「ただ、コロナ禍と被ってしまい、栗東では人の輪を広げられませんでした。成績も今一つ上がらない中、もう一度挑戦しようと、幸四郎先生に無理を言ってまたフリーにならせてもらいました」
こうして自ら退路を断つ行動に出ると、本人も気付かないうちにプレッシャーがかかっていた。ある日、腹痛に襲われ、検査をするとストレスからくる十二指腸潰瘍との診断。週末に予定していた騎乗を全てキャンセルせざるを得なくなった。
「治ったと思ったらまた何度もぶり返しました。横になっていても痛むので、汗取りすらままならず、その度に乗り替わりとなり、多くの方々に迷惑をかけました」
「意に反して体が言う事を聞かず、さすがにこのままでは騎手を続けられない」と、夏あたりには引退を考えるようになった。
「各方面に相談すると、藤沢厩舎ラインの古賀慎明調教師が調教助手として雇ってくださる事になりました。美浦に戻った時には周囲から冷たい目で見られるかと心配したけど、皆、優しく、温かく迎え入れてくれました」
新たな誓い
ちなみに「要介護になる」と言われた母は、本人がリハビリを頑張った成果もあり、自立して生活出来るまで「奇跡的な回復」(柴山)を見せたという。
「今回の引退報告に関しては、残念がりつつも今後も変わらず応援すると言ってくれています」
そんな柴山は、一つの宿題を残して、ターフを去る。
「GⅠを勝てなかったのは心残りです。自分のためではなく、応援してくださった皆さんに、GⅠ勝利の報告を出来なかった事が残念なんです」
こう言って下げた目線を、再び上げると、言った。
「ただ、これでホースマン人生が終わったわけではないですからね。笠松時代の皆や、藤沢先生、アンカツさん、武兄弟、土井さんの墓前やサポートしてくださった皆さん、そして、母親に、今後は厩舎スタッフとしてGⅠ勝ちの報告が出来るよう頑張っていきます」
旗幟鮮明に誓った柴山だが、その前に、もう一つ、仕事が残っている。明日28日の中山で用意された“騎手としての最後の5鞍”だ。
「重圧から解放された現在は、心身共に今までで最高といえるくらい良い状態です。騎手生活最後の1日は楽しんで乗ろうと思います」
騎手柴山雄一。最後の勇姿に刮目したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)