【戦国こぼれ話】本能寺の変前夜、備中高松城の水攻めは誰が考案したのか
今から440年前の天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長を討った。その直前、羽柴秀吉による備中高松城の攻防は大詰めを迎えていたが、誰が水攻めを考案したのか検証しよう。
■備中高松城の攻防
天正10年(1582)3月、羽柴(豊臣)秀吉は、毛利方の城将・清水宗治が籠る備中高松城の攻撃を開始した。中心になって活躍したのは、黒田官兵衛と蜂須賀正勝である。
備中高松城の攻防といえば、水攻めがあまりに有名である。同年5月8日、秀吉は備中高松城近くを流れる足守川を堰き止め、尋常ならざる突貫工事で短期間に完成させた。従来、水攻めの献策は、官兵衛によってなされたといわれている。これは、事実なのであろうか。
この点に関しては、『黒田家譜』の記述が詳しい。秀吉は難攻不落の備中高松城に無駄な攻撃を仕掛けて、貴重な兵卒の命が失われるのを危惧した。そこで、秀吉は水攻めを思いついたのである。
しかし、堰き止める工事は難航を極め、秀吉は官兵衛に命じて、急いで堤防を築かせたのであった。堤防の高さは約7mもあったという(諸説あり)。
したがって、水攻めのアイデアは秀吉で、堤防を築いたのは官兵衛ということになろう。まさしく官兵衛と秀吉の「二人三脚」というところであろうか。ところが、この説には異論がある。
■蜂須賀正勝説
官兵衛は小寺氏に仕えている頃から有能な吏僚であったが、土木工事に関しては、さほど実績はなかったと考えられる。むしろ、城郭の縄張りや築城には、優れていたようだ。
近年、提示されている説では、木曽川で川並衆として実績を持つ、蜂須賀正勝らが中心になって堤防が築かれたのではないかと指摘されている(牛田義文『史伝 蜂須賀子六正勝』)。とはいえ、こちらは有力視されながらも、明確な根拠はない。
水攻めとはいえ、備中高松城が通説で言われるような水を満々と湛えた湖のようになったとは思えない。足守川の堰を切り、水が膝くらいまであれば、敵兵はぬかるみに足を取られて身動きがしにくくなる。
それくらいでも十分な効果があり、敵の攻撃意欲を削いだり、動きを封じることに意味があった。大工事により巨大な堤防を短期間で作るなど、とてもできるとは思えない。それは、後世に伝わった誇張であると考えられる。
■水攻めの成功
水攻めは、一種の兵糧攻めでもある。備中高松城の城兵は消耗するばかりで、徐々に戦意を喪失していった。秀吉の狙ったとおりにことは進み、やがて戦いは有利に進んだのである。やがて、両者の間には和睦の機運が生まれ、交渉の場を持つようになった。
しかし、同年6月2日、京都の本能寺に滞在中の織田信長が、明智光秀によって謀殺された。いわゆる「本能寺の変」である。思いがけず信長が殺されたことにより、事態は急転回を遂げたのである。
■むすび
「備中高松城の水攻めは誰が考案したのか」という問いについては、明確な回答が得られなかった。とはいえ、大量の農民を動員して、巨大な堤防を短期間で作るなどは考え難い。今も堤防の遺構は残るが、必要な箇所にスポット的に作ったと考えられないか。