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【九州三国志】抗争に生きた筑紫氏の運命!勢力拡大と滅びの狭間で揺れた武士の系譜

華盛頓Webライター
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筑紫氏の名が史料に登場するのは応永年間(1400年頃)のことです。

彼らは少弐氏の重臣として始まり、九州探題・渋川氏との戦いや、大内氏との抗争に身を投じ、その名を広げていきました。

しかし、戦国時代に入ると、少弐氏から離反し、大内氏の傘下に入ることで一族の勢力を拡大

大永年間(1520年代)、主君であった少弐氏と完全に袂を分かったことで、筑紫氏は独自の道を進み始めました

満門・尚門と続く当主たちは、肥前や筑前で激戦を繰り広げるも、その戦いの中で少弐氏や大内氏との関係は次第に複雑化し、しばしばその命運を左右されることとなります。

田手畷の戦いでは、尚門が戦死。

大内氏滅亡後の弘治年間(1550年代末)には、毛利氏や大友氏という九州を巡る覇者たちに翻弄されるようになりました

惟門の時代、大友氏に対抗するため毛利元就に通じて挙兵するも敗北

嫡男・広門らと共に山口へ逃れるが、毛利氏の支援を受けて帰還しました。

以後、彼らは釣り野伏せと呼ばれる戦術で大友軍を苦しめ、何度か勝利を収めるものの、最終的には永禄10年(1567年)、高橋鑑種や秋月種実らと共に挙兵した戦いに敗れます

惟門は家督を広門に譲り、自害を装って降伏したという。

こうして、かつて栄華を誇った筑紫氏は、九州の動乱に翻弄され、主君の交代に従う中で歴史の中へと消えていきました

その軌跡は戦国の不安定さを象徴する物語です。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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