【戦国こぼれ話】黒田長政と「恐るべき天才軍師」父・官兵衛との知られざる逸話3選
12月21日は、黒田長政が誕生した日である(旧暦の永禄11年〔1568〕12月3日)。ところで、長政には、父・官兵衛との知られざる逸話があるので、3つ紹介することにしたい。
■「お前の左手は・・・」
最初に取り上げるのは、黒田長政が慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に徳川家康と面会した逸話である。次に、内容を紹介しておこう。
関ヶ原合戦後、長政が中津に戻ってきた際、「家康が手を差し伸べてお礼を言ってくれた」と黒田官兵衛に報告した。
官兵衛は、「家康が差し伸べてきたのは、右手か左手か」と長政に問うた。
これに対して、長政は「右手である」と返答したところ、官兵衛は「お前の左手は何をしていたのか」と言ったという(なぜ左手に刀を持って家康を刺さなかったのか、ということ)。
これは官兵衛に天下を取って欲しかったという願望であって、史実とみなし難い。
それをユニークな語り口で、「官兵衛ならこう言ったであろう」という具合に創作したのである。
第一、現実問題として、短刀を胸にしまいこんだまま、家康に近づくのは極めて困難だったと考えられる。
あまりに荒唐無稽な話であると、断ぜざるを得ない。なお、この逸話は根拠が不詳である。
■天下を望んだ官兵衛
次に紹介するのは、官兵衛が死に臨んで、長政に遺言した逸話である(『常山紀談』)。
私は無双の博奕の上手である。関ヶ原で今少し石田三成が持ちこたえたなら、九州から攻め上り、日本を掌中に収めたかった。そのときは、子である汝(長政)を捨てて、一博奕打とうと思ったのだ。
こちらも同じく、官兵衛が天下統一を悲願としており、それが三成のあっけない敗北で実現しなかったと残念がっている。
息子の命までも犠牲にするのであるから、官兵衛には相当な覚悟があったといえよう。
こうしたエピソードの数々は、「官兵衛に天下を取って欲しかった」という思いが反映されているのであるが、まったく根拠のない創作にすぎない。
■長政を欺いた官兵衛
知将として知られる官兵衛は、その死の瞬間まで人を欺き続けた。
官兵衛は病に伏してから、家臣たちを呼びつけ、次々に罵ったといわれている。
家臣たちは、如水が「ご乱心」であると、恐れおののいた。しかし、これは官兵衛の謀略だった。
ある日、たまりかねた家臣たちは、長政に対して官兵衛を諌めるように注進した。
家臣に懇願されたこともあり、長政は官兵衛のもとに向かった。
すると、官兵衛は枕元の長政に対して、「家臣にひどい仕打ちをするのは、自分が早く疎まれて、長政の代になって欲しいと思わせるためだ」と囁いた。
つまり、官兵衛が家臣に憎まれごとを言えば、家臣は官兵衛を快く思わないだろう。
それどころか官兵衛は、「早く長政の代になって欲しい」と家臣が願うことを期待していたのである。
なぜ、そのようなことを考えたのか?当時は、主人が亡くなると、殉死する慣習があった。
官兵衛は殉死によって、優秀な家臣が死ぬことをも恐れたのである。
自分が憎まれれば、殉死も無くなり、優秀な家臣は長政に引き継がれることになる。
そのように官兵衛は述べると、後事を股肱の臣である栗山大膳に託した。
長政には、「大膳を父と思え」と言い残し、大膳に長政の教育係を命じたという。
官兵衛は、かねて自分の死ぬ日を予言していたが、その予言した日に亡くなったのだから、あまりに出来すぎた話である。
■まとめ
このように官兵衛に関するエピソードの多くは、後世になった編纂物に記されており、ほとんど信用することができない。
しかし、官兵衛の人気は高く、さまざまな期待を背負っていたことは事実である。
ここまでの逸話は、「官兵衛に天下を取ってほしかった」などの願望が込められた逸話にすぎないのである。