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石田三成が忍城の水攻めに失敗したのは、豊臣秀吉の指示に従ったからだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
忍城。(写真:イメージマート)

 日本の歴史公園100選の紹介記事で、さきたま古墳公園(埼玉県行田市)が取り上げられていた。こちら。ここに陣を置き、忍城を水攻めにしたのが石田三成である。

 三成が忍城の水攻めに失敗したのは、豊臣秀吉の指示に従ったからだったので、その辺りを取り上げることにしよう。

 天正18年(1590)の小田原城の戦いには、三成も出陣していた。同年5月、三成は秀吉から成田氏長の居城の忍城(埼玉県行田市)の攻撃を命令された。

 三成は2万の軍勢を率いて出陣したが、忍城は泥田と沼に囲まれており、何より城代の成田泰季は頑強なまでに抵抗した。三成は長期戦を覚悟し、秀吉の備中高松城(岡山市北区)の例にならって水攻めにしようと考えたといわれている。

 同年6月7日、三成は忍城を水攻めにすべく堤防工事を開始した。突貫工事により堤防が築かれ、同月13日には完成した。堤防は総延長28キロメートルにおよぶものだったが、直後の大雨により堤防は決壊。三成の目論見は、無残にも失敗してしまったのである。

 三成が忍城を水攻めにすべく築いた堤防は、「石田堤」といわれ今も残っている(行田市から鴻巣市にまたがる)。行田市の部分は埼玉県の指定史跡であり、鴻巣市の部分は「石田堤史跡公園」として整備された。

 同年6月13日、三成は書状のなかで、味方の軍勢が水攻めになることに安堵し、戦闘に積極的でないと嘆いたことを確認できる(「浅野家文書」)。

 攻める側からすれば、敵が食糧不足などで、戦意が喪失することを待てばよいと考えたからだろう。ただ、忍城の水攻め自体は、別に三成のアイデアではなかったようなので、その点を確認しておこう。

 同年6月20日、小田原城を攻囲中の秀吉は、三成に書状を送った(「埼玉県立博物館所蔵文書」)。

 その内容とは、①三成から送られた忍城周辺の図面を見たこと、②忍城の水攻めをしっかりと行うこと、③水攻めでは浅野長吉(長政)、真田昌幸とよく相談すること、④水攻めの準備が整ったら報告をすること、など細かい指示が書かれている。

 つまり、忍城の水攻めは三成が考えたのではなく、秀吉が命じた作戦になる。秀吉は浅野長吉(長政)にも書状を送っているが、そこにも忍城の水攻めを命じたと書かれている(「浅野家文書」)。

 むろん、三成が秀吉の命令を拒否できるはずがなかったので、無理と思っても実行しなくてはならなかった。その結果、三成は忍城を落とすことに時間を要し、小田原城開城から10日後の7月16日までかかった。

 忍城攻略の失敗は、秀吉による水攻めの厳命によるもので、三成に責を負わせるのは不当かもしれない。以後、三成は吏僚としての能力は評価されつつも、軍事は劣るというレッテルを貼られる要因となったのである。

主要参考文献

太田浩司『近江が生んだ知将 石田三成』(サンライズ出版、2009年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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