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ラグビーW杯まで1年 新日鉄釜石V7戦士・石山さんが語る「本当の復興」とは?

若林朋子北陸発のライター/元新聞記者
1985年当時の新日鉄釜石のラグビー部のメンバー(写真:山田真市/アフロ)

 2019年9月25日、岩手県釜石市の釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアムで、ラグビーのワールドカップ(W杯)が開催される。東日本大震災の後、「ラグビーを通じて復興支援を」と心に決め、W杯招致やスタジアム建設に尽力してきた「スクラム釜石」代表の石山次郎さん(61)は、開幕まで1年となった今、何を思うのか? 「行動あるのみ」と、ひたすら汗をかいてきた7年半について振り返った。

1年後のラグビーW杯開幕と釜石の復興へ期待を寄せる石山さん(筆者撮影)
1年後のラグビーW杯開幕と釜石の復興へ期待を寄せる石山さん(筆者撮影)

 石山さんの現役時代について紹介しておく。バスケットボールの強豪校として知られる能代工高(秋田)を卒業後、新日鉄釜石製鉄所に入社。高校時代は無名だったが、新日鉄釜石では最前線でスクラムを支える左プロップとして活躍した。1979年から85年まで日本選手権を7連覇したチームの中心選手である。80年から85年までは日本代表に選出され、キャップ数は19。寡黙な人柄や、骨を惜しまぬプレーは今も、オールドファンの心を捉えて放さない。

東日本大震災で考えは変わった

 1988年に32歳で現役を引退した後は、「過去の栄光を語るのは、みっともない」「指導者には向いていない」と社業に専念した。「ラグビーをさせてくれた会社に、仕事で恩返しを」という思いがあったからである。人前に出ることの苦手意識もあった。しかし、2011年3月11日の東日本大震災で考えは変わったという。

「若いころの私は、いつも人の後ろに隠れていました。引退後は、あえてラグビーと距離を置いた。しかし、今はPRのためにスポーツイベントに出たり、講演をしたりします。なぜなら、ラグビーや釜石に恩義があるから。日本代表や世界選抜に選ばれるなんて、高校時代には想像もしなかった。おかげで海外遠征にも行けて、いい思いをいっぱいさせてもらった。だから、恩返ししたいと思いました」

富山市内で講演する石山さん(筆者撮影)
富山市内で講演する石山さん(筆者撮影)
講演会の会場で釜石鵜住居復興スタジアムを紹介した(筆者撮影)
講演会の会場で釜石鵜住居復興スタジアムを紹介した(筆者撮影)

 2011年5月、新日鉄釜石のスター選手だった松尾雄治さんを担いで、OBやクラブチーム・釜石シーウェーブスの関係者らとNPO法人「スクラム釜石」を立ち上げた。「スクラムなら石山だろう」という声に押されて代表に就任。活動の中心に据えたのは、日本で2019年に開催が決まっていたW杯の釜石誘致である。

 津波でホテルも線路も流され、スタジアムもない。大震災の4カ月後にW杯誘致を提案すると、「そんなの無理だ」と言われた。ゼロどころかマイナスからの出発となるのは、承知の上である。「最初から『無理だ』と諦めたら、それで終わり。何も進まない」と主張を曲げなかった。

社会的意義なら大いにある

「ラグビーの町・釜石」の思いをくんだのだろうか。W杯を主催する「ワールドラグビー」は、ハード面での整備に加え、誘致を検討する都市の評価基準に、「W杯を開催する社会的意義」という条件を掲げた。石山さんらは「それなら大いにある」と勇気を得る。

 2015年1月にW杯の関係者が開催候補地を視察した。スタジアムの建設予定地は、水没した鵜住居地区の小・中学校があった場所で、がれきの集積地でもある。スクラム釜石のメンバーは何もない場所で、大漁旗を振り続け、視察に訪れた人たちから「ファンタスティック」という言葉を聞いた。その後、3月に岩手県と釜石市によるW杯招致を勝ち取っている。

降雪の中、スタジアムの建設現場で作業に当たる石山さんら(本人提供)
降雪の中、スタジアムの建設現場で作業に当たる石山さんら(本人提供)

 ここから石山さんは「もう一押し」した。「行動あるのみ」を身上とするラガーマンの真骨頂である。W杯の会場となるスタジアム建設に携わったのだ。2017年6月に定年退職し、すでに着工していた釜石鵜住居復興スタジアムの元請けである大成建設へ再就職。測量を終えた建設予定地で、安全管理業務のかたわら測量の杭を打ち込む仕事に黙々と励んだ。

「作業をしていると、土の中から食器の破片や、子どもたちが遊んだと思われるウルトラマンのおもちゃの一部なんかが出てくるわけです。『被災する前の生活が、確かにここにはあったのだなあ……』と感じました」

 土に触れ、汗を流すことで湧いてくる感情を大切にする人である。東日本大震災の後も、救援物資を積んで自ら被災地を巡り、いろんなことを考えた。倒壊した家屋や、家財道具が散乱し、それらをかき分けてむき出しになった道路を走り、自分がどこを走っているのか分からなくなった。「がれきの山に上がって街全体を見ようと思ったが、その中に遺体があるのではと思うと、できなかった」と振り返る。

完成した釜石鵜住居復興スタジアム(石山さん提供)
完成した釜石鵜住居復興スタジアム(石山さん提供)
オープニングイベントへの準備が整う釜石鵜住居復興スタジアム(石山さん提供)
オープニングイベントへの準備が整う釜石鵜住居復興スタジアム(石山さん提供)

7月に釜石鵜住居復興スタジアムが完成

 今年7月に釜石鵜住居復興スタジアムが完成し、8月19日にはオープニングを記念して、レジェンドマッチとして新日鉄釜石と神戸製鋼OBが対戦した。復興支援の最前線で「スクラム」を組み、前進してきた思いは、一つの形になったといえる。W杯によって、釜石は立ち直ることができるのだろうか。石山さんが考える、本当の意味での復興とは?

「W杯開催は復興のための手段の一つ。漠然とした言い方ですけれど最終目的は、みんなが笑顔になれること。そんなふうに考えています。笑顔になると、前に出ていけるようになる。動き出すことができる……」

 石山さんは2012年4月から15年9月までは富山県と新潟県へ赴任し、天然ガスのラインを敷設する工事に当たっていた縁で、地元の壮年ラグビーチームと交流。メンバーとの交友関係を今も続けている。9月中旬、富山市内で「震災から7年 復興そしてラグビーW杯への思い」と題して講演した。聴講者に支援を呼び掛けた後、今後について語った言葉は意外な内容だった。

富山市内で講演した後、ラグビーファンと交流する石山さん(筆者撮影)
富山市内で講演した後、ラグビーファンと交流する石山さん(筆者撮影)

「私はこの9月、異動で秋田県東成瀬村へ勤務地が変わりました。W杯開催中は、どこかでこっそり釜石を見守ります。元々、華やかなところが苦手で、似合わないのです。復興のサポートを釜石の外からしていきたいと思っています」

 これからW杯に向けて、釜石のラグビー熱は高まっていくだろう。しかし、「お祭り」を遠くから見守るつもりでいるらしい。「スクラムとは苦しいもの。その割には目立たないんです」と石山さん。「人前は苦手」というかつての立ち位置を望む口ぶりに、ひとつの役目を果たした充実感がのぞいた。

※NPO法人「スクラム釜石」ホームページ。復興支援活動やW杯に向けてのイベントなどを紹介している。

http://scrumkamaishi.jp/

北陸発のライター/元新聞記者

1971年富山市生まれ、同市在住。元北國・富山新聞記者。1993年から2000年までスポーツ、2001年以降は教育・研究・医療などを担当した。2012年に退社しフリーランスとなる。雑誌・書籍・Webメディアで執筆。ニュースサイトは「東洋経済オンライン」、医療者向けの「m3.com」、動物愛護の「sippo」、「AERA dot.」など。広報誌「里親だより」(全国里親会発行)の編集にも携わる。富山を拠点に各地へ出かけ、気になるテーマ・人物を取材している。近年、興味を持って取り組んでいるテーマは児童福祉、性教育、医療・介護、動物愛護など。魅力的な人・場所・出来事との出会いを記事にしていきたい。

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