立川談志と日劇ウエスタン・カーニバルの意外な接点
今から11年前の2011年11月21日、立川談志は喉頭癌のため亡くなった(享年75)。
談志は落語界に様々な革新を生んだが、そのひとつに実は音楽イベント「日劇ウエスタン・カーニバル」の影響があった。
日劇ウエスタン・カーニバルの革新性
1958年から1977年まで日本劇場で開催されていた音楽イベント「日劇ウエスタン・カーニバル」は、音楽史的にも、芸能史的にも革新的なものだった。
初期には「ロカビリーブーム」を巻き起こし、山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキー・カーチスの「ロカビリー三人男」らが大ブレイク、後期にはザ・タイガース、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズなどの「グループ・サウンズブーム」の拠点となった。
それだけではない。興行形態も大きく変えることとなった。
自身も「スイング・ウエスト」のリーダーとして日劇ウエスタン・カーニバルのステージに立ち、のちにホリプロを立ち上げる堀威夫は『芸能界誕生』(新潮社)で、このように証言している。
また、野地秩嘉は『渡辺晋物語』の中で、日劇ウエスタン・カーニバルは戦後初めてティーンをターゲットにしたイベントだったと指摘している。10代から20代の若者たちが歌い踊り狂う。それを見てファンの女性たちが熱狂する。そんな10代の若者たちが消費者となったことを知らしめたイベントだったのだ。
さらに、このカーニバルをプロデュースした渡辺プロダクションの渡邊美佐は、「ロカビリーマダム」あるいは「マダム・ロカビリー」などと祭り上げられ、時代のヒロインとなった。
渡邊美佐は、おそらく戦後初めて、ショービジネスの裏方として脚光を浴び、スターになったのだ。
そして、前出の堀威夫を筆頭に、このステージに立っていた田邊昭知、相澤秀禎らも裏方に回り新しい芸能ビジネスを作っていくことになる。
ミッキー・カーチスと立川談志
渡邊美佐に「これからは演技力も必要になるわよ」と言われて開眼したのが、渡辺プロに所属していたミッキー・カーチスだ。「ロカビリーだけでは先が知れている」と「なんじゃもん座」の座長として舞台公演を行い、演技を始め、岡本喜八の監督デビュー作『結婚のすべて』で映画デビュー。この映画では演奏シーンがメインだったものの主演の雪村いづみとのセリフのやりとりもあり、岡本から「役者をやらないか」と誘われた。結果その後、『若い娘たち』、『暗黒街の顔役』など十数本の岡本監督作品に出演することになった。
口癖の「ドンドンやっちゃう」が流行語にもなったミッキー・カーチスは、日劇効果でまさに「ドンドン」仕事を広げていった。
渡辺プロ躍進の決定打となる『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ)のMCにも抜擢された(参考:『ドラクエ』作曲家・すぎやまこういちが「テレビ」に遺したもの)。
そんなミッキー・カーチスはいつしか落語に傾倒していった。
立川談志が興した「立川流」では、寄席や演芸場よりも、劇場やホールで開催する「ホール落語」を主戦場とすることに大きな革新性があった。
これには落語協会、落語芸術協会から出てしまったため寄席に出られなくなったからというやむを得ない理由もあるが、もうひとつの理由に、「落語は寄席でやるもの」という常識を打ち破ったミッキーの日劇でのステージに、若き日の立川談志が感銘を受けたことがあったというのだ。
「落語は寄席でと決まっていたものを、ああいうホールでやってお客を黙らせたんだから、あれは見事なものだ。あれで、落語は別に寄席だけじゃなくてホールで演ってもいいとわかったから、立川流を立ち上げたときにホール落語に切り替えたんだ」と(ミッキー・カーチス:著『おれと戦争と音楽と』より)。
ミッキーは後年、談志に弟子入り。「ミッキー亭カーチス」として立川一門会B(有名人)コースの真打ちに昇格した。その真打ち披露公演は、日劇の跡地に建った有楽町マリオンの朝日ホールで行われた。